私はよく研究室の学生にこう言う。 

 

「宗教なら神様がおっしゃったことが真実だ。でも、学問には真実というものはない。もし現在、正しいと思っていることが本当に正しいなら、学問の活動は終わりになる。 

 

 学問とは、一応、ここまでは「みんなが正しいと思われる」ところまで行く作業だ。だから学問には意見の相違というのはない。」 

 

 宗教は正しいことが決まっている。普通は教祖様がおっしゃったことが記録され、それが真実となる。だから「信じるか信じないか」の問題であって「合意できること」ではない。だから異なる教えの宗教を信じる人の間では話し合っても合意は出来ない。 

 

 宗教戦争が多いのはこれが原因しているのだろう。 

 

 それに対して学問には真実というものはない。絶対に確実と思われる学問的な知識もやがて覆される。もし現在の学問がすべて正しければ学問という活動自体が存在しないことになる。 

 

学問というのは今を疑い、それを覆すことにその使命があるからだ。 

 

でも、学問にはもう一つの制約がある。それは「学問的な訓練を受けたものなら、合理的に理解することができることを仮に正しいとする」というものである。だから合理的な説明は必須であり、従って「測定できないもの」「証明できないもの」は学問ではない。単なる個人の考えだ。 

 

もちろん、個人の独創的な考えは大切だが、それが他の人が合理的に理解できない間は、その「説」は「学問」の領域には入らない。

 

最近の環境問題では「地球温暖化は二酸化炭素が原因か」ということが丁度、ギリギリのところにあるだろう。かなりの確実さでそうも言えるが、反論もまだ多い。だから学問的には「可能性が高い」ぐらいがせきのやまだろう。

 

宗教は個人個人の心の問題だ。だからこそ信教の自由が保証されているが、それは同時に他人に強制してはいけないことを意味している。もし強制したら、自分の信教の自由を主張して、他人の自由を認めないことになるからだ。

 

学問は人類の共通の財産である。だから、新しい考えを述べる人は学問の素養のある人なら納得いくようにしっかりと説明しなければならず、完全に説明できなければ、それがまだ一つの「説」であると断らなければならない。 

 

学問は発達の途中にあることが多いので、これまでの学問で認められていることは良いが、そうで無い場合は「私の考えでは・・・」「正しいとは限りませんが、ご参考まで・・・」と言わなければならない。 

 

 「リサイクルが資源の浪費になる」ことは従来の学問で証明されているので、新しく「リサイクルが資源の節約になる」と言う学者はその証明が必要である。

 

 「地球温暖化の原因が二酸化炭素」というのはまだ学問的には十分なデータがなく納得性を得ていない。「可能性が高い」というぐらいだろう。ところが環境のテーマは社会的な動きと密接に関係しているので、この学問の原理原則をはずす動きが目立つ。 

 

 時には学問が宗教化したのではないかと思うこともある。 

 

 たとえば「私は地球温暖化がゆゆしい問題だと信じているので、原因は二酸化炭素だ」という支離滅裂な論理が展開されるのが一つの例である。これは学問ではなく、信じなさいと迫られるようなもので私には苦痛だ。 

 

 多くの日本人が学問を信じてくれている。だから学者は学問の原理原則を守り、信頼に応えなければならない。