他人のものは他人のもの、自分のものは自分のもの・・・それは隙あらば他人の土地もお金も自分のものにしたいという私たちの衝動を抑える戒めである。

 

 それでは私たちが一番大切にしている「命」は誰のものだろうか?

 

 私は人生のほとんどを研究生活の中で過ごしてきた。そしてそこから学んだものは「自分の考えはいかに間違っているか」ということだった。

 

 理論計算と実験をしてデータを得ると“A”という結論に至る。それは疑いようもない。何しろ実験データだから間違いないし、繰り返し実験しても同じ値が得られる。理論とも合っている。絶対に“A”だと私は確信する。

 

 ところが、それがしばらく経つと、いとも簡単にその確信は覆される。私の人生でそんなことをイヤと言うほど味わった。時には実験そのものが勘違いであったり、グラフを書くときの横軸が先入観だったり、さまざまであった。

 

 だから「私が正しいと思っていることは、おそらく全部、間違っている」という確信が私の中にできた。平安時代に自動車、テレビ、携帯電話のことを話したら気が狂っていると思われるに相違ない、そんなことである。

 

 私たちの常識や正しいことは1000年は持たないのだ。

 

 それから見ると、お釈迦さま、イエス・キリストさま、それにマホメットさまはすごい。お釈迦様が2600年、イエス・キリスト様が2000年、そしてマホメット様が1400年も人々に正しいことを教えておられる。

 

 だから、私は自分の寸法を考えて、たとえ自分が間違っていると思っても、自分より偉いと思う人が言われていることをそのまま信じることができる。それは研究が私につけさせてくれた力だ。

 

 命は誰のものだろうか?

 

 「命」、それは難解で矛盾に満ち、とらえどころがない。それだからこそ、お釈迦様も難行苦行をされ、イエス様は山に籠もられ、そして悟りに達した。悟りなしに命は判らないのだろう。

 

 私に判るはずはない、とわたしは思う。

 

 野に咲く花は美しく咲き、ヒバリは天高く飛んで囀る、なんの疑いも無く、悩みも無く、ただ与えられた生を謳歌する。それが命だと教えてくれる。

 

 だからそうなのだろうと私は思う。私は目標というものを置かない。そしてその日、その日を精一杯、生きる。私は途中主義だ。それは私が正しいと思うことではない。悟りを開いた人は必ずそうおっしゃっている。

 

 駅に行くのが目的で歩くのではない。歩けるから歩き、歩くことに一所懸命だ。その結果、いつの間にか駅に着くこともあれば途中で雨に降られることもある。でも、どちらでも良い。

 

 野バラは咲き、ヒバリは囀り、そして私は歩く。