中学校の環境の副読本に相当するものの執筆を頼まれた時だった。私はその中に次のような一節を書いた。

 

「汚れた体をシャワーで綺麗にする。それは、私たちにとっては気持ちの良いことだが、これを「環境」という面から考えてみたい。

 

 シャワーに入る前の私たちの体は汚れている。そしてシャワーの後は綺麗な体になる。ということは、シャワーとは「汚れた体」を「綺麗な体」と「汚れ」に分けることであり、私たちは綺麗な体になることができるが、私たちの体を離れた「汚れ」は環境にでる。

 

 つまり、人間から見れば体を綺麗にすることが、環境から見ると汚されることになる例は多い。自然に優しいとか環境に良いといわれることでも、それが人間から見た場合ではないかと疑ってみて欲しい。

 

 環境を守るということはどういうことだろうか?」

 

 この文章にイラストをつけてもらったページは容易には認めてもらえなかった。こんなことにページを割くぐらいなら世界各国のリサイクル率の表を示すべきだという強硬な審査員のご意見があったからだ。

 

 それからしばらくして、この原稿を掲載するかどうかの激しい戦いの中、私は好きな「二十四の瞳」を思い出した。日本が戦争に突入する前夜、子供たちに「鬼畜米英(アメリカ人もイギリス人も鬼と畜生だ)」と教えることを強要する文部省とそれに密かに戦う小学校教師を演じる高峰秀子・・・

 

 男の子は戦争にあこがれ、次々と戦場で散っていった。

 

 国家が戦争をしているなら、私は国民の一人として戦場におもむき、突撃するだろう。それはいったん戦争になれば国民の義務だから仕方がない。でも、子供たちもその時の国家の方針に従わせるべきだろうか?

 

 たとえ大人がアメリカと戦争していても、子供にはアメリカの歴史や文化を教えるべきではないだろうか?

 

文部省は政府の政策と一線を画してくれという私の強硬な要求と、審査員の意見の間に立った人の困惑した表情を今でも私は覚えている。