中国・漢の時代の民謡「君子行」の一節:「李下に冠をたださず」という言葉は人間社会の一面を鋭く抉っているが故に、2000年の時を経た現代でもときどき使われる。

 

 李、つまり「すもも」は美味しい果物である。たわわになった李の下で自分の冠を直すと、それは李を取ろうとしたと疑われる。君子とはそういうような「人に疑われる行為」をしてはいけないという戒めである。

 

 そういわれると私も自信が無いのだが、教師という仕事をしていると、ある意味では日常的に「李下に冠をただす時」が来る。

 

 教師は学生の答案を採点する。解答をよく読み、正しく理解しているかどうかを判断して点数を付け、それを採点簿に転記する。この間、心に手を当てて自分が客観的に、どの学生にも平等に採点するように心がけ、さらに転記間違いがないか、何度もチェックする。

 

 それでも、この作業が李下に冠をただす行為の一つであることは確かである。学生にとっては自分の答案が正しく採点されているか、転記間違いはないか?「あの先生、大丈夫かな?」と心配しているに相違ない。

 

 でも、学生は偉い。普通はじっと我慢していて、自分ではもっと出来たと思っても、もしかすると先生が間違えたのではないかと思っても、あまり文句は言ってこない。そこで、私は数年前まで試験の成績を学生の前で公表していた。スライドを使って、学籍番号と点数だけを教室で示すのである。そうすると、数人の学生は必ず「俺の点数はおかしい」と言ってくる。そして私とその学生で点数を確認する。

 

 個人情報保護法ができて、これが出来なくなった。個人情報については歴史の深いアメリカなど多くの国で学生の成績を廊下に貼り出しているのだが、日本の場合、個人情報について未熟なので、何を言われるか判らないからである。

 

 「先生が成績をつける」という行為は「嫌いな学生に悪い成績をつけるのではないか」という心配があるので、私は「李下に冠をただす」という行為と思う。だから、先生の方から積極的に採点結果を学生に示すべきだと思う。

 

 つまり、私たちの仕事のうち「李下に冠をただす」時には、必ず、その人が「求められなくても」公開し、もちろん求められたら、直ちに内容を公開する必要があると考えている。特に公的なもの、利害の伴うことはそうだ。

 

 「レジ袋の撤廃は、環境省と公告会社とスーパーの提携の可能性が高い」と私は言っている。具体的な証拠があるわけではない。でも、環境に悪いことを環境省がしようと言うのだから、結託していないということを積極的に公表すべきである。

 

 「専用ゴミ袋を決める自治体は、業者と結託していないことを明らかにするべきだ」と言っている。これも、合理的な理由がないのだから、弁明の必要がある。

 

 日本の民主主義(国民の方がお役人より偉い)も少しずつ前進してきて、住民が請求すれば公的なデータは公表しなければならないようになった。でも、私はもう一歩、踏み込んで「疑われるようなもの」は積極的に公表するのが良いと思う。

 

 もう一つは「市民側は証拠が無くても、疑わしいと発言して良い」という原則を決めるべき時だと思う。特に利害関係がある場合、「疑わしくないことを証明せよ」と迫る権利を認めた方が良いと思う。それは「公表する」ということは何も苦労がいらないからだ。

 

 日本の原子力は「民主、自主、公開」である。だから、常にマスコミや一般の人が傍聴しているが、だからといって言えないことが生じたことはない。2006年の519日の原子力安全委員会の基準部会で、私は「地震が来たら、付近住民が被爆するのだから、同じリスクを設計者も、そしてこの基準を認可する我々も負おう」と発言した。

 

 国の委員会としてはおそらく異例の発言と思うが、それがそのまま公表されている。実に日本の原子力行政は素晴らしい。その後、柏崎原発の地震による放射線の漏洩があったが、「地震が来て放射線が漏れるなんてケシカラン」という話があった。

 

 それはおかしい。すでに会議は公開され、そこにマスメディアもいた。そのマスメディアは、「地震が来たら付近住民は著しく被爆する」という議論を聞いているのに報道せず、地震が来たら「なんと言うことか!」と憤慨してみせるというのはフェアーではないし、そんなことをしていたら、また隠蔽されるだけだ。

 

 現在の法律や制度の許す限り、私は「疑わしいもの」には「疑わしい」と発言させてもらうことにしている。その疑わしさというのは私が金品の授受や便宜の供与の確証を持っているわけではなく、普通の状態ではあり得ないことが起こるという場合に、「大丈夫か?」と聞いている状態である。

 

 たとえば、放送法第3条で「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という規定があるにもかかわらず、NHKが「地球温暖化は環境破壊として厳しい」という政府の方針だけを報道した場合、「NHKは圧力を受けていると考えられる」と発言して良いと考えられる。

 

 NHKは政府の方針を伝えたり、国民を指導する機関ではなく、報道機関だからである。報道の自由は政府の批判無くして権利を得ることができない。だから、政府寄りの報道をするなら報道機関ではない。政府は二酸化炭素の排出を減らそうと必死になっており、排出権取引を企業に強要している。

 

 一方、企業は表向きは政府に逆らえないものの怨嗟の声は満ちている。学者でも地球温暖化そのものに疑義を唱える人や、私のように環境への影響が少ないと言う人も多い。それなのにNHKは政府寄りの報道しかしない。

 

 NHKが政府の圧力を受けて番組を加減していることをこちらは証明する必要がない。放送法第3条に違反していることは明らかなのだから、それで嫌疑は十分である。

 

 だから残念なことではあるし、NHKは良い放送局のようには思うが、このままではNHKは報道機関ではなく、放送法第3条に違反しているから、違法な機関である。だから、NHKの方には悪いが、我々が視聴料を払うと違法になる。視聴料の支払いを拒否する方が合法だ。

 

 つづく