私は大阪で、せっかく目覚めたのに、すぐにはそれが日々の生活に結びつかなかった。

 

大阪で気がついたことは

「自分が本当に楽しいと感じること」

「常識的には“これが楽しい”と決まっていること」

が違うということが判っただけで、だから

「それでは、具体的に、自分の生活はどうしたら良いか」

ということまでは判っていなかった。

 

 それから数年間というもの、少しずついろいろなことを試みて、先入観として私の頭に入っている「常識のカスミ」を取ろうとした。

 

一つ一つはなかなか思い出さないのだが、500円の昼食より1000円の昼食が美味しいというのも、おそらくお金を尺度にしている自分の錯覚だろうと思った。そこで実際に500円の昼食を食べ、そして1000円の昼食を食べてみた。味わってみた。

 

この試みの結論は月並みで、「昼食というのは値段でも、内容でもなく、その店のサービスが良ければ美味しい」ということが判っただけだった。

 

また、仕事で会社にいるより、家にいる方が「得」な感じがするが、これは錯覚だろうか?と休日に会社に出てみたり、出張の時には、それまでビールを飲んでひっくり返っていた夜の列車の中で、仕事をしてみたりした。

 

自分は今の仕事がイヤなのだろうか?それとも「仕事をするより休んだ方が得だ」と錯覚しているだけか?と自問自答した。

 

そんなことを何回かやっているうちに、これは自分の錯覚を取るのにうまく行ったと感じる例を2つばかり紹介したい。いずれも、今、考えてみればバカらしい話だが、それを境に私も、私の学生も変わったのは事実だったから。

 

一つは自分の行動の試みである。

 

その頃、私は東京にいてよく電車に乗った。割合、活動的な私はしょっちゅう動いていて、その分だけ電車にも乗ることが多かった。

 

ある時、私は190円の切符を買えばよいのに、350円の切符を買ってみた。何で、そんなバカらしいことをしたかというと、「そこに行くのに何円なら良いか」と考えたのである。

 

つまり、今までは行くところがあれば、そこまで行く電車賃を見て、190円なら190円の切符を買った。でも、それは「値段を見て決める」という今までのやり方ではないか。行くべきなら行く、行きたいなら行く。ポケットのお金の範囲なら行く、表示された電車賃はその「最低金額」を示しているだけだと思ってみたのだ。

 

バカらしいと言えばバカらしいが。これを何回かやってみると、お金の額で何かを考えるという習慣が少しずつ無くなってきたのを感じた。

 

そんな時、淡野安太郎さんのゲルマンの文化の話に遭遇して、私のその後の行動はガラッと変わった。この話は私のホームページに何回か書いたが、「目覚め」にも大きな影響を与えた。

 

中世のヨーロッパ。ゲルマンの農夫たちに地主が新しい小麦を刈るカマを持って来て「これを使って能率をあげれば、13マルクの賃金を4マルクにする」と言った。

 

それに対して農夫たちは「今の生活で十分楽しいから、4マルクもいらない」と答える。

 

地主が「毎日、1マルク貯めたら、半年に一度は町にでて楽しめるぞ」と言うと、農夫たちは「働いて貯めたお金では遊んでも面白くない」と答えた。

 

私はこの話を読んで、「ああ、そうか!自分にはこれで十分楽しい、ということが判っていないのだな」と気がついた。

 

このゲルマンの話を現代流に直せば、「初任給が20万円と30万円とどっちが良いか?」と聞かれて、「私は18万円で十分に楽しい生活ができますから20万円で結構です」というようなものだ。

 

でも、現代はいくらあれば楽しいのかが判らないので、お金は多い方が良いと錯覚するのだ。お金が楽しさをもたらしてくれることはない。楽しいはずだと錯覚させるだけである。

 

私はすこし人生というのが判ったような気がした。少し長くなったので、2番目の話はまた次回にしたい。

 

つづく