ときどき、新聞に臓器移植や安楽死で事件が報じられる。そこで糾弾されるお医者さんの多くは苦しむ患者さんを目の前にして、やむを得ず医学的にはまだ完全には認めていない医療を患者さんに施して、それが事件になる。

 

 医療事件が起こると、社会では「問題はあるかも知れないけれど、家族は同意しているのだし、本人が苦しんでいるのだから、仕方が無いじゃないか」というお医者さんの擁護派と、「認められてない治療をするのは問題だ。売名ではないか」などという批判派が登場する。

 

 ところで、このような問題に対して「社会の原理原則」はどうなっているのだろうか?

 

 医師という職業の仕事の「命令者」は「命」である。命を守ること、それが医師の譲れない心棒のようなもので、それは医師の収入、名誉、国境、人種などとまったく切り離された至上命令である。

 

 外国に旅行して病気になり、病院に行ったら医師が「あなたは憎らしい日本人だから治療はしない」とは言わないのが普通である。たとえ、つい最近まで日本がその国を占領し、その国の人に酷いことをしても、その仕返しにといって治療を拒否したり、毒物を注射したりはしない。

 

 どんなことがあっても医師は命を守ることに全力を挙げる。

 

 でも、医師にもしていけないことがある。それは「新しい治療法を自分で開発してそれを患者さんに使うこと」である。このことは次の理由による。

 

 命→医学者→医師→患者 という系列があるからだ。

 

 医療は命を守る。守る方法は医学者が研究して一つずつ治療法を作り上げていく。最初は大学病院や国立病院などで慎重に使い、少しずつ実用的になると一般の開業医でも使えるようになる。

 

 もし、普通の開業医で「開発精神」に富んだお医者さんがおられて、次々と新しい治療法を編み出したとしよう。患者さんはどんな治療を受けるか判らないのでとても不安になる。

 

 つまり、普通のお医者さんは「すでに安心して使えることが判っている治療をする」のが原理原則である。これは弁護士や裁判官が「法律を作らず、すでに出来ている法律を守る」ということと同じだ。

 

「弁護士、医師、技術者などの専門家における社会の原理原則」とは、「自らは新しいことはやらずに学会などで定められたことを勉強し、訓練し、それを社会に適応する」ということである。

 

これに対して「法律家、医学者、科学者」は新しいことを発見したり、新しい発明をする。医学者は「安楽死の研究」をしても良いが、安楽死が社会で認められない限り医師は「安楽死という名の治療」をすることはできない。

 

 だから、目の前の患者さんがどんなに苦しんでいても、医師は安楽死という治療をすることはできず、もしそれでもする場合には犯罪と言われる覚悟しなければならない。それは医師が「命」を放棄することであり、社会はまだそれを容認していないからだ。

 

 ところで、ここから話は医師から技術者に変わる。

 

 技術者を志す学生で「新しいことをしたい」と希望する場合が多い。「私は技術者になり、研究所に入って新しい技術を発明し、世の中に貢献したい」という。でもそれは良いことだろうか?

 

 医療と同様に技術も社会に与える影響は大きい。たとえば、キュリー夫人がラジウムの崩壊の研究をしたり、レントゲンを使った診断を研究しても良いが、それを治療に使うにはもう一つ別の手続きが必要である。

 

 技術者が自分で生み出したものは、その技術者にとっては社会に役立つと思うだろうが、果たして社会がそれを受け入れるかは別である。

 

 ロボットは人間を単純な労働から解放してくれるが、もしそれが行きすぎると人間は労働する機会を失うかも知れない。ロボットを研究している技術者は、最初から「人間は単純な労働から解放されたいはずだ」と仮定している。

 

 でも、人間が額に汗して働き、そのことによって収入を得て暮らしを立てるというのは太古の昔からの「健全な」人間の生活である。そして頭脳労働は苦手だが、単純労働は得意だという人は働かなくても良いという結論も早急には出せない。

 

 つまり「ロボットを開発する」というのはまだ、学者の仕事であって、学者の領域にとどまっている限りは社会の合意が無くても良いが、ロボットを社会の為に使うというのは技術者の仕事であり、それは社会との合意が必要であるし、また社会が容認しなければ使ってはいけない。

 

 この関係は厳密に考え、守った方が良いと私は考える。たとえば、原子力発電もそれが技術なのか、科学なのかが明確ではない。時として科学者が原子力発電の是非を議論するが、科学者は市民としては良いが、自らの専門として原子量発電の是非を議論してはいけない。

 

科学者はエネルギーを得る手段の一つとして原子力発電の原理を発見し(理学)、発電所というシステムを発明する(工学)だけである。その先に進むのは危ない。

 

 今、「科学技術は何をするか判らない」と言われ、「科学技術の発展が環境を破壊する」とされる。いずれも正しいが、なぜそうなったかと言うと、科学と技術に対する原理原則を踏みはずしたからと私は思う。

 

つづく