20年ほど前、私は原子力の仕事でよくフランスに行った。

 

 その中でも忘れられないのがアビニオンとトリカスタンだ。フランスの中南部、パリから新幹線で2時間ぐらいだっただろうか。田園地帯から少し丘陵が見えてくるあたりだ。

 

 アビニオンの印象が深いのは、ローマ時代から続くと言われる古い城壁と狭い町並み、そして有名はフランスの民謡「アビニオンの橋の上で」の橋を見ることができることだ。

 

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 街の中の細い石畳を歩くとローマ軍団の靴音が聞こえ、橋のたもとに行くと「橋の上で踊ろよ踊ろよ」という民謡が聞こえてくる。

 

 アビニオンからトリカスタンに向かってローヌ川をさかのぼるとワインで有名な地域でもあり、古い町並みとワインセラーが印象的だ。そんなところにウラン濃縮工場がある。

 

 巨大な工場で、その工場を動かす電気を作るだけで4基の原子力発電所が付いている。何気なく聞いていると理解できない話だ。原子力発電所といえば、大都市に電力を送る為に作られるような気がするが、たった一つの工場を動かすのに原子力発電所が4つも付属しているというのだから、驚きだ。

 

 原子力発電所では確か200MW程度の電気を作っていたように思う。そこで作った電気が工場に供給され、濃縮ウランを作る。作るときに電気はすべて熱に代わり、冷水塔を通って大気や川の水の温度を上げる。

 

 私はその工場の全景が見えるところに立って、「これまで学んできたことはこういうことだったのか!」と感激したことを思い出す。

 

まず、濃縮ウランを原子力発電所に入れて熱をだし、その熱のうちの3分の1が電気になり、3分の2が熱のまま、むなしく川に流れる。

 

 作られた電気はウラン濃縮工場に送電されて、ウランのガスを細い孔に通し、そこで濃縮ウランを作ると、すべての電気は熱となる。なんのことはない。少しの濃縮ウランを取るために、膨大な熱を発生しているだけだ。電気は熱をだす仲介物のように感じられる。

 

僅かな濃縮ウランが手に残り、すべては熱になる。

 

 それから20年。私はコンピューターの研究者と懇談していた。最新の大きなコンピュータは電気を膨大に食う。最大級のものの消費電力は20MWクラスだという。そして、供給された電気はコンピュータを動かし、すべて熱に変わる。

 

 濃縮ウラン工場の時には手元にウランが残った。時代が変わり、ウランがコンピュータになって、手元に「新しい知識の詰まったハードディスク」が残る。いずれも電気のなれの果てである。

 

 かつて、現代でもそうだが、私たちは電気がいる。だから濃縮ウランを作った。そして現代は気象予測が必要だ。だから電気で「知識」を作る。その時代、時代で求めるものは違うが、人間が活動すると熱がでる。

 

 最近の熱は「知恵熱」になったのだろう。

 

 そういえば人間の脳で消費される熱は25ワットほどだという。つまり、超大型のコンピュータの100万分の1程度である。だから、もし超大型のコンピュータの計算能力や判断能力が人間の脳と同じなら、100万人分の働きをしてくれるはずだ。

 

 この超大型コンピュータを動かす技術者は100人。ということは技術者一人あたり、人間の脳で消費される知恵熱の1万倍を使う。

 

 そうだろう。現代の苦悩は人が、生物としての自分の使うエネルギーや資源の量の1000倍から1万倍になったことによって起こっている。それは、環境破壊であり、資源枯渇であり、心の喪失である。

 

 活動は人間に幸福を与えてくれる。濃縮ウランは電気を作り洗濯機を動かす。コンピュータは台風の進路を教えてくれて私たちを危険から救う。そして熱を残す。

 

 25ワットの脳は20MWのコンピュータに代わり、さらに将来は200MWとなって我々を幸福にし、そして不幸にする。

 

 

 小さなコンピュータでもある程度のことはできる。でも大きければ大きいほど、計算は速い。「速い」計算が「良い」とするとコンピュータは際限なく大きくなり、ついに「人間社会を破壊する」まで大きくなるのではないか。途中で止める論理はあるのだろうか?

 

 人間は限界を知らない。限界を知ってもそれを実現することはできない。正義の戦いをしているうちに原爆を作り、豊かな生活を求めているうちに環境を破壊する。とことんまでやらないと判らない頑固な動物なのだろう。

 

おわり