遠山先生と安井先生の論争については、すでに「学問の自由」と「報道の自由」という観点から1回ずつ整理をしてみた。

 

 今回は「学問は報道の自由から見た、個人への攻撃の限界」を考えてみたい。

 

 学問の自由が保証されるのは「政府に批判的な立場で行う学問に限る」ということであり、これは1回目に詳しく述べた。当たり前と言えば当たり前のことで、時の権力に迎合した学問は、権力が手厚く保護し、迎合する学問を進める学者には高い地位を与えるので、「自由」など必要はない。もともと自由は保証されている。

 

 今回の論争は、遠山先生がNHKで「ダイオキシンはサリンの数倍の毒性」と言われ、それに対して安井先生が「財務省からにらまれるぞ!」という意味の事を書かれたことに端を発している。

 

 論争自体、かなり捻れていてわかりにくい。

 

最近の研究ではダイオキシンの毒性が弱いと言うのが主流だが、環境省は「ダイオキシンは猛毒」として規制を行っている。それと同じ事を遠山先生がご発言になったからといって、同じ政府機関の「財務省が睨む」ということになると、ダイオキシンの規制はお役所の縦割り行政の結果かと考え込んでしまう。

 

 学問の自由という見地からは遠山先生がどのようにご発言になっても良いのだが、この問題は「特定の個人をどのぐらい批判できるか?」という問題をも含んでいる。

 

 個人を攻撃して名誉毀損になる条件は次の2つであると弁護士に教えてもらった。

1) 非難された人が反論できないとき。

2) 非難された人が改善できないこと。

 

 たとえば、ある新聞が特定の個人に目をつけて毎日のように記事でその個人の批判をするとする。批判された個人は疲れ切り、そして反論の場も与えられていない・・・そのような場合が上の1)である。

 

 これはネット上でも同じだ。ネットにはほぼ誰でも反論できそうだが、批判する方が団体で運営している有名なサイトでアクセス数も多く、批判される方はやっとやっと個人で運営している小さなサイトの場合、やはり名誉毀損の疑いがあり、自由な批判は制限されるだろう。

 

 特に「団体が個人を批判する」とか「大勢で一人の人を批判する」という時には注意が必要である。個人には体力の限界もあり、また職業を持っていたら時間的制約もある。

 

 ネットでは人間は「紳士的ではなくなる」と言われるが、個人に電話する時には「電話してよろしいでしょうか?」と遠慮がちに言うのが普通であるが、団体に電話するときには事務的に電話できる。個人と団体は普段のやりとりから違う。

 

 ところで、2)の条件はさらに厳密だ。もっともいけないのは「性別、肌の色、生まれ」などで非難することだ。「女だからあんな事を書く」というようなことを言えば一発で名誉毀損になる。それはもうみんなが判っている。

 

 「**県出身の人だから」とか「**大学を出ているのに」などというのも、かなり怪しい。その人は批判されても「**県生まれ」を帰ることはできないし、大学の場合はその人が自分で選んだのだが、それでも「やり直しはできない」というものだからである。

 

 学問の自由、報道の自由、言論の自由は、どちらかというと「強い物に批判的な場合に許される」という条件がついている。新聞記事でもネットでも、政府や報道機関、大企業、大学などは自由な批判が可能だが、特定の自治体、中小企業、個人などになると批判はかなり制限される。

 

 特に、「団体(政府やさまざまな団体)」が「個人」を批判する時にはかなりの注意がいる。それは「個人」が「個人」を批判する場合も同じだ。

 

 遠山先生と安井先生の場合、仮に安井先生が最初に遠山先生のNHKでのご発言を批判したとすると、むしろNHKを批判されるべきなのだろう。放送法第三条で「反対の意見がある場合、両方をだす」と決まっているのだから、NHKは「ダイオキシンは猛毒ではない」という学者にも登場してもらうべきだったというのがおそらく正解だ。

 

 さらに、団体を批判しにくい場合、個人名を出して非難するのではなく、その人の発言内容だけを批判するのが限度のように考えられる。たとえば、「先日のテレビで「ダイオキシンはサリンと同じように猛毒」ということを言っていた先生がおられたが、実際には・・・」という具合である。

 

 内容を批判するより、相手の人格を非難する方がてっとり早い。でも、それは私たちが手にしている「言論の自由」の範囲内だろうか?

 

 私たちはインターネットの発達によって、新しい言論の自由を手にした。でもこの自由は大切にしなければならない。特に「個人を批判する」ということに注意しないと、ネットの自由自体を失う可能性すらある。

 

つづく