ロンドン天文台長だったH.Brownはその著書 “The Wisdom of Science”の中で、19世紀に描かれた「紅茶を鑑定する学者」という挿絵を示しながら、次のように言っている。

 

 小善良科学.jpg

 

「どんな立場にあっても、それがみずからの利害と関係していても、自分の学問の神髄にもとる判断はしない、という学者は1920年代に絶滅した」

 

 つまり、紅茶の鑑定を頼まれた学者は、たとえ依頼先の会社から多額の金品をもらったり、次に自分がその会社に就職しようとしていても、目の前の紅茶の鑑定は自らの学問で正しく判定する・・・専門家として当然のことだ。でも、それができる専門家がいたのは1920年までだったというのである。

 

 1920年というと今から80年以上前だ。お祖父さんの時代と言っても良いだろう。そんな時代にすでに「専門家が正しく行動する」ことができなくなったのである。

 

 もちろん、現代の日本もそうだ。専門家といえども社会のシステムの中でがんじがらめに縛られている。とても、しがらみを切って自分の学問の命ずるところに従って行動するのは難しい。

 

 少し言葉は悪いが、「専門家・御用学者時代」なのである。

 

 なぜ、専門家は絶滅したのだろうか?

 

 抗生物質「タミフル」の副作用について、最初はタミフルの研究にお金をもらっている学者も評価に加わっていたが、批判を受けて降りた。「タミフルで研究費をもらった学者はどうしてもタミフルは副作用が少ないと主張するだろう」という疑いがぬぐえないのだ。

 

 国立研究所に所属する研究者の多くは「魂のある研究者」である。本当は自分の考えにそって意見を述べたいが、何といっても国家に雇用されているので、あからさまに政策に反することは口にしにくい。

 

 それは個人の問題ではなく、社会のシステムの問題のように思う。家族を支えなければならないサラリーマンとしての国立研究所の研究者に、政策に反対する発言を求めるのは酷だ。

 

 そんな社会のシステムを補正するような意味で、少し前までは大学が自由な研究をしていた。先生が、研究していてもしていなくても、立派でなくても立派でも、同じ給料、同じ額の研究費で大学はやっていた。

 

 しかし、社会の批判が大きくなって、大学も「差別化」の時代に入り、「競争的研究費」という名前のもとで「社会に役に立つ研究」に研究費が投じられるようになった。

 

 考え方は正しいように見える。でも、そのことによって当然のように起こったことは次のようなことだった。

1) 「社会に役立つ」ということを決める人は政府か国会である。

2) 従って、政策に合致する研究しか研究費がでない。

3) その研究でお金をもらった先生は「タミフル現象」に陥る。

 

 仮に「その分野で優れた研究者が、競争的研究費をもらう」という「正常な状態」で進むと、その結果は「国の政策に反対する学者はいなくなる」という結果を招く。

 

 たとえば、「地球温暖化は重要な環境破壊だ」ということになり、「地球温暖化防止」に多額の研究資金がでる。それをもらうのはその道の権威の先生だ。研究費が多ければ優れた学者のすべてが研究費を受け取る。

 

 しばらくして、地球温暖化はあまり環境破壊しないということがわかるとする。でも、研究資金をもらった先生方は「地球温暖化は環境を破壊しない」とは言いにくい。なぜかというと、研究資金をもらうと研究報告をしなければならないが、その研究資金は税金からでている。だから「地球温暖化は環境破壊の危険性が高いので、・・・・という研究を行い・・・ということがわかった」と報告する。そのあとは「危険性が少ない」とは言えないのである。

 

 専門家は苦しむ。

「ダイオキシンは猛毒だ」ということを前提に膨大な研究費をもらった先生が「ダイオキシンは毒性が低い」と発言するのは勇気がいる。

この矛盾は個人の問題ではなく、社会のシステムの矛盾なのである。

 

 日本の主要な先生方が政府の政策に反対できなくなる仕組み、それが「競争的研究資金」だったのだが、このシステムが覆ることは難しい。また昔のように「何もやらない先生」に同じように研究資金を出すことに社会は賛成しないだろう。

 

 でも、社会が本当に「汚れのない情報」を求めるなら、社会全体を見渡し、長い歴史を考えて、全体的な判断が必要だ。

 

 現代のシステムでは、国の政策は常に専門家に支持される。そして都合の悪いデータは出てこない。それはこんな仕組みが当然のようになった社会がもたらしたものだから、歴史的産物でもあるし、また社会の選択の結果でもある

 

おわり