集団が貧しい時には強いものをリーダーにつけ、あるいは強いものしか子供を持てないようにして生き延びる。でも、集団のメンバーは誰もが自分の生であり、自分の時である。その中で弱い者は苛められ、人生を持たない。

 

 1930年にオルテガ・イ・ガセットが「大衆の反撃」を書いた。そこには人間の富があるレベルを超え、それまで貴族だけが味わうことができた生活を大衆も享受することができるようになり、それが社会や人生にどのような影響を与えるかが鋭く描かれている。

 

 フィンランドは日本とほぼ同じ面積を持ち、人口は日本の22分の1である。しかも森が多く緯度は極端に高い。でも生活は豊かであり、自然は素晴らしい。フィンランドは原則として大学入学試験がなく学校では成績の序列をつけない。

 

 彼らは学校を卒業すると森に入る。だから勉強は他人を蹴落とすためのものではなく、自らが森の中で生活するすべ、人生を豊かに送る素地をつけるためである。だから序列を付ける意味はないが、それでいて、科学者、文学者、芸術家、そしてスポーツマンは人口比で日本に劣らない。

 

 アイヌは乙名と呼ばれる酋長は持っていたが、階級性というのはほとんどなかった。そして「自分のものは自分のもの、他人のものは他人のもの」という思想のもとに決して他人のものを奪取しようとせず、それゆえに2000年間、アイヌ同士の戦闘はなかった。

 

 アイヌは北海道の環境と完全に調和し、文字をもたなかったが決してその文化は劣るものではなかった。頭脳は素晴らしく明晰である。

 

 そろそろ良いのではないか? 日本人はオルテガの「大衆」を超えて「総貴族化」を果たし、少子化が進み、序列なしに真面目に人生を送る民族の素質を持っている。序列をつけなければ優れた技術も人材も輩出しないというのは、幻想だと私は思う。

 

 日本が生んだ柔道は勝つことを求めない。柔道を通じて己を克服する力、相手を尊重する力、勝敗を度外視して全力を尽くす魂を求めた。決して相手をねじ伏せることを目的としたものではなく、むしろ、自らがやがて負ける時の覚悟をつけることだった。

 

 現代、その闇の一つに「勝負」がある。勝負を求めて仁義なき戦いを行う。もっとも称賛される勝者は強敵と戦って勝った勇者ではなく、弱いものを騙して利得をとる狡猾なものが称賛される。

 

 環境という名の新しい分野でもそれは同じように行われている。「白い悪魔の粉」と呼ばれたDDTがその典型的な一つであるが、DDTを使って白人社会にマラリアが無くなると、直ちにDDTを環境を破壊するという名目で製造を禁止し、それからというもの有色人種は年間100万人を超える犠牲者を出し続けている。

 

 現代日本の環境にやさしいといわれる行為は、その多くが元気な中年、エネルギーの余っている人たち、そして個人や集団で力や声の大きい人たちのものである。その声の中で、情報が閉ざされている、論理が組み立たない、口が回らない、そして起き上がれない人たちは寂しく笑うだけである。

 

 勝負に勝つために全力を尽くす、少しぐらいごまかしても勝てば英雄であるという時代を映像は賛美しているが、まだ民衆は支持し続けるのだろうか?それともどんなに細い声でも、その声の中に潜む真実に耳を傾けるのだろうか?

 

 私は長く教育や産業に携わり、頭の良い人、仕事ができる人、元気な人の中に偉人を見たことはない。それこそが私が教育に絶望する一つの理由である。教育は野獣を人間にするが、現代の教育は人間を野獣にする。

 

 明るい未来を拓けないだろうか?勝負を意識しなくても、序列をつけなくても、日本が繁栄することはあり得ないだろうか? 日本人は勝負や序列に関係なく、自らするべきことをし、人間としての成長を遂げ、国を維持していくことができると確信する。それは、これまでの日本の歴史が教えることであり、日本人の行動が示している。

 

 もう一歩のような気がする。勝ち負けは関係ないが、私は頑張る。勝てば負けるものがでるが、頑張っても負けるものはでない。私たちは飢え死なない。勝ち負けのない序列のない社会に踏み込むだけの生産力を持っている。

 

 オルテガの本の題名に従えば、私たちは「大衆の反撃」から「主人としての大衆」の時代へと進んでいる。勝ち負けを放棄することが負け犬ではない時代に入りつつある。勝てば豊かな人生が待っているというのはすでに幻想だ。

 

おわり