遠山先生と安井先生の論争と学問の自由についてはすでに、(1)で整理をした。
その要点は、
1)学問とは新しいこと、これまでにないことなので「反政府」になることが多い。
2)学者が政府の気に入らないことを言っても研究が阻害されてはいけない。
ということである。
さて、今回は両先生の論争と報道の自由について考えてみたいと思う。
この論争のことの発端は、NHKのニュースで遠山先生が「ダイオキシンは猛毒だ」と言う意味のご発言をしたことによる。
日本の社会で、「ダイオキシンは猛毒」ということが定着したには次の3つの理由があった。
1)1970年代にラットを中心としてダイオキシンの毒性が認められた。
2)1992年のリオデジャネイロ合意で「科学的根拠無く毒性があると考えられるものは規制できる」という原則15が認められた。
3)日本の報道機関が放送法第3条の2(第一項)を守らなかった。
1)はよく分かるが、2)は少し予備知識がなければ理解するのが難しいかも知れな
いし、この問題はかなり難しいのでまた別の機会に整理をすることとしたい。今回は3)がメインである。
放送法第3条の2(第一項)はなかなかの条文で、放送は、「事実を曲げないこと」、「対立した考えがある時には一方だけを放送してはいけないこと」を言っている。特に、放送というのは瞬間的なので、視聴者が「パッと見て正しく判断する」ことが求められるからである。
現代の環境問題における放送はほとんどこの第3条2(第一項)が守られていないことで混乱が起きている。早い話が「放送局が放送したい方の人だけを呼んでコメントを求める」から問題が複雑になる。
すでにダイオキシンについては、東大医学部の元教授 和田攻先生や、横浜国大の環境関係の先生、東大の渡辺正先生などが「毒性が弱い」と言っておられるのだから、NHKは遠山先生だけではなく、放送法第三条を遵守して(NHKだけは特別という考えもあるが)両方のコメントを放送する方が良かった。
社会になぜ「自由で独立した」報道というものが必要かと言うと、これはなかなか難しい。本来、政府は正しいことを言うはずである。特に日本の場合、「公務員」は不正をしてはいけないはずであるから、その発表は正しいはずである。
でも、ウソの発表をする。だから自由で独立した報道機関が必要であり、さらに記者には「報道の自由」と「取材源の秘匿」が保証される。もし政府と同じだったり、ある特定の利益を代表した報道をするなら、自由はいらない。
そこで報道機関は「政府とは反対の事や社会の主流ではないこと」に少し重点を置いて報道しなければ社会は平衡感覚を失うからこそ、報道機関は独立しなければならないのである。
特に民主主義では「多数派」は多数決で優位に立つので、その情報は流れがちである。だから報道機関は少し少数派に焦点を当てなければならないということもあり、さらに両論併記が必要となるのである。
ここにダイオキシン報道の問題点がある。いったい、ダイオキシンが猛毒であるという見解が日本社会にこれほど蔓延したのはなぜだろうか?報道機関はそろって「ダイオキシン猛毒説」であった。政府はそれほどでもなかった。いわば報道機関に押されたという感じである。
今回の遠山先生と安井先生の議論を見ても、どちらが「政府より」なのかは判らない。普通に考えると政府はダイオキシン規制を厳しく指導しているのだから遠山先生と同じ政策と思うが、そうすると安井先生が「ダイオキシンが猛毒だというと政府を敵に回すぞ」と言われているのが判らなくなる。
政府はダイオキシンの毒性が弱いと思っているが、マスコミが猛毒説なのでいやいや猛毒説を採らざるを得ない、だから猛毒説を繰り返すと政府に睨まれるということを安井先生は言っている。
それに対して遠山先生は「政府から脅されようが私は私の信念で言う」と言っておられ、これも正しい。ということは、政府はダイオキシンが猛毒ではないと思っていて、マスコミに押されて猛毒としての規制をせざるを得ない。そこに遠山先生が猛毒だというので政府はお冠になるという図式が見えて来る。
現代の日本はこれほど情報にあふれているにもかかわらず、政府がダイオキシンを猛毒と考えて国民を守ろうとしているのか、それとも報道機関が騒ぐから仕方なく規制しているのか、NHKは反政府というスタンスで遠山先生に「ダイオキシンは猛毒だ」と言ってもらったのか、誠に奇妙な関係になっている。
仮に報道がダイオキシンが「騒ぎ」になった時にも両論併記しながらその判断を国民に任すという事ならかなり社会の反応も、また「ダイオキシンが猛毒だ」ということで犠牲になったセベソの人も少なかっただろう。
その意味で放送はやはり放送法第3条2(第一項)を遵守する方が良いと私は思う。たとえば、最近では地球温暖化で「危ない、危ない」という報道だけが行われているが、「それほど危険ではない」という意見も多いので、これが既成概念にならない前に対立的考えを報道するのが望ましい。
そうしていると、考えが一つになりがちな日本も多様な考えが共存できる柔軟な社会になるだろう。
草々