ネットで激しく論争されている遠山先生と安井先生の論争を通じて見える現代日本の学問と報道の自由について考えてみたいと思う。2,3回を予定している。

 

 遠山先生がNHKでご発言になったと言う「ダイオキシンはサリンの数倍の毒性」ということに安井先生が異議も申し立て、「財務省からにらまれるぞ!」という意味の事を書かれたらしい。このことは遠山先生のページに公開されている。

 

 遠山先生は毒物学としてダイオキシンの研究をされている先生で、「サリンの急性毒性とは質が違うがダイオキシンの毒性も注意しなければならない」というお考えと承った。これに対して安井先生は「毒性が弱いダイオキシンを猛毒というのはウソをついているようなものだ」というご見解である。

 

 ことの次第は遠山先生がまとめられているのでネットで「遠山千春 ダイオキシン」で検索すればすぐ詳細を読むことができるので、ここではこの論争の中心点の一つと思われることを題材にして「学問の自由」について考えてみたいと思う。

 

 社会にはさまざまな役割を持った人が働いている。

 

軍人は命令とあらば、命令自体が「意味があるか?」とか「自分の考えと同じか?」などは考えず、人生で一番大切な命を捧げるという特殊な職業である。

 

 政治家は、選挙区や国民の希望を政治という場で実現する役割があり、報道は社会に事実を流すという役割を持っている。

 

 学者は自由な立場で学問を進めるというのが役割である。そして学問というのは「新しいこと」が多く、また「今までと違う」ということも多い。つまり学問は現在を否定することがあるので、しばしばその国の権力や現体制と衝突する。そこで、学問の自由を確保し、それによって新しい時代やより正しい真実に近づこうとするのが社会の意志である。

 

 この学問の自由を守るためには「学者の行うことを評価してはいけない」という大原則がある。まして「時の権力が評価しない」というのは当然である。仮に時の権力が学問を評価したらそれは直ちに「学問の自由を制限する」ことになるからである。

 

 遠山先生が異議を唱えておられることの一つが安井先生の次の文章である。

 

安井.jpg

 

 安井先生の文章は、「遠山先生が学者としての信念で述べられたことは政府の諸機関の意向に反しているから、どんなことが起こるか判らない」という警告のように読める。

 

 学者が自らの信念を述べられることは大変、結構なことで、だからこそ学問の自由が必要である。そして、学者の言うことは反政府でよい。もともと、学者の研究がたまたま政府よりの場合もあるし、真っ向から反することもある。政府は大きな気持ちで学者の研究を認めておくのが社会の健全な発展につながると歴史は教えている。

 

 安井先生は更に続けて、より厳しい警告をし、それに対して遠山先生が反論されている 。文中で「貴兄」とあるのは遠山先生が安井先生のことを言っておられます。

 

安井2.jpg

 

 この論争も「学問の自由」の本質を突いている。

 

かつて大学の教授になると一所懸命、研究をしていても、サボっていても給料はもとより研究費も変わらなかった。普通の社会では考えられないことだ。一週間に一日しか大学に来ないで、それも1時間半、講義をして帰ってしまう先生と、毎日、朝早くから夜遅くまで大学にいて研究や教育に専念され、社会的に評価の高い先生が同じ給与なのだから驚く。

 

 そんなことはおかしい!という社会からの声が強くなって「競争的研究資金」「先生によって差をつける」「国立大学を独立法人化する」・・・と環境は変貌した。その結果、あまり議論をせずに直感的に政治が動いたのだろう。

 

100年後の日本というより、すぐにでも研究の成果を生かしたいということだから、実践力を補強したい弱体チームのようなものである。当面は良くなったように見えるが、その裏で学問の自由が崩壊し、社会は大きな痛手を受ける。

 

大学が不能率に見えるのは「学問の自由」を守るためであって、「効率」が「自由」を束縛することは多くの人が体験している。

 

 日本社会全体で大学の先生の給料などしれたものであり、また企業の研究や国立研究機関などを含めれば、大学の研究費も大した額ではない。それより日本の社会に大切なのは「政府一色」ではない、さまざまな考えがあり、また新しいこと、異論がでる社会が長期的には望ましい。私の考えであると共に歴史はそう言っている。

 

 もし遠山先生のご意見が「政府の気にいらない研究には研究費が出ない」ということになると、まさに学問の自由が崩壊する。私はダイオキシンについては遠山先生と違う意見を持っているが、もし、遠山先生が「反政府」ということで研究費はもらえないとするとそれは私も同じだ。

 

現代は、厳密な意味で「政府ぴったり」でなければ研究費を取れない時代なのだ。

 

 遠山先生の言われるとおり、学問的な反論はかまわないが、個人的中傷は控えた方が良い。また、学者は学問の自由を守るように社会に常に発信しておかなければならないだろう。 その意味で安井先生の発言(ネットも含めて)が学問的な自由な発言なのか、あるいは個人的中傷なのかは裁判にでもならなかったら社会や読者が判断することなのだろう。

 

 また繰り返すと、私はダイオキシンについて遠山先生のご見解と違う。でも、学問は自分と見解が違う人を尊敬しなければならないから遠山先生を尊敬している。またダイオキシンの毒性は新しい傾向が見られるので、研究は大切である。

 

つづく