現代社会では「報道の自由」と「学問の自由」は疑いなく認められている。でも、記者と学者に与えられるこれらの自由は、「何をしても与えられる」というものではない。

 

 自由の前提は、記者が書く記事、学者が対象とする研究が「反政府的活動」であることだ。もし、御用記者や御用学者ならその記事や研究は時の権力によって十分に保護されるので、自由そのものは常に保持されているからである。

 

 現代の日本のマスメディアの記事は、その80%が政府または当事者発表に基づいていると言われる。従って、日本の記者の80%は報道の自由を持たず、取材源の秘匿の権利もないことになる。

 

 同じ事が学者にも言える。かつて学者と政府の研究資金の関係は密接ではなく、大学に所属する研究者は研究内容にかかわらず、ほぼ同額の研究費をもらっていたし、大学内の地位も「獲得した研究費」などとは関係が薄かった。

 

 ところが、大学が持つ「知的財産」が「社会」に貢献していないということで「競争的資金」という名の研究資金が増え、どの分野の研究に投資するかを首相の諮問機関である「科学技術戦略会議」というところで決めるシステムが導入された。

 

 だから、第一に現在の日本の研究の多くは学問の自由を持たないことになる。

 

 これによって大学も学問の自由を失っている。たとえば私の分野では「循環型社会の形成技術」というのは国家目的だからお金がでるが、私のように「非循環研究」には資金はでない。研究の方向が国の方針とは正反対だからである。

 

 もちろん、「リサイクル率を求める研究活動」にも資金はでない。国はリサイクルは推進しているものの「どのくらいのペットボトルが再利用されているか」という数値を出すのをいやがっているからである。

 

 大学に競争的資金が導入された時期、私はすでに教授だったから個人的にはあまり悩まずにすんだが、助手ぐらいのポジションだったら大いに悩んだだろう。自分としては非循環研究をしたい、でもそれをしていると研究資金が取れず、従って研究成果が上がらないばかりか、あらゆる書類は「研究費獲得実績」を記入しなければならないから、必然的に助教授、教授と昇進することができない。

 

 新聞記者も同じかも知れない。新聞というのは「新聞社」という企業体ではなく、記者の集合体だから、本来は「社の方針」というのがあってはいけない。これは大学で「大学の方針」というのがあって、それに沿わないと首になったり、昇進を遅らされたりすることと同じである。

 

企業体は「私」であり「公器」ではないから、仮に新聞社が営利を目的に活動し、「私」としての立場を取るなら、そこに所属する記者は単なる「従業員」であり、従って、報道の自由も取材源の秘匿の権利も失う。

 

 同じように大学が収益を求め、研究が大学当局や私立大学においては理事会の「指示」によって為されるようになれば、学問の自由は失われ教授の地位も教授会の議をへる必要は無くなる。

 

 最近、私が報道の自由と学問の自由を考えるようになったのは、「環境問題ではなぜウソがまかり通るのか」という本が注目を浴びたからである。さまざまなところから問い合わせ、質問、そして取材がくる。

 

 その多くが「国が公表している数値と違う」というものだ。もちろん、本自体が国が発表していることと違うことを書いているので、そこに書かれている解釈も概念も数値も国と違う。だから、普通の人から質問が来るのは当然だ。

 

 その中でも多いのが「ペットボトルのリサイクル率」である。私はほぼ6%程度と書いた。そして、多い質問は「国の数値と違う」ということだが、ほとんどの日本人は私の本が出版されるまで、日本には「ペットボトルのリサイクル率」が示されていなかったという事に気がついていない。

 

 一般の人からの疑問は当然だが、新聞記者やテレビ局に同じような質問をされると違和感がある。本来、ペットボトルのリサイクル率というような重要な数値は、3つあるべきである。一つは政府、もう一つは記者が取材した値、そして最後に学者が出した値だ。

 

 たとえば、太平洋戦争のミッドウェー海戦での大日本帝国海軍の損失というのを考えてみよう。まず大本営は「日本軍の損害は軽微」と発表する。記者は参戦した兵士などからも取材して「どうも、日本海軍の損害は甚大だったらしい」ぐらいは踏み込むだろう。まさか、大本営発表をそのまま伝えはしない。

 

 学者は歴史的立場から、少し時期は遅れてもミッドウェー海戦の経過、両軍の損害規模、そしてその歴史的位置づけなどについて整理を行うはずである。この時も大本営発表通りの数字を信用して歴史を論じることはしない。

 

 そして記者と学者はそれぞれに求めた数値を議論するのであり、大本営発表の数値を元にするわけではない。

 

 時の政府が自軍の損害を軽微に発表することが一概に間違っているとは言えない。戦闘中は若干の「故意の誤報」は存在するからである。戦争という必要悪に付随する異常事態でもある。

 

 でも記者や学者は社会における存在目的が違う。記者は事実を報道し、学者は学問的真実を求める。だから、記者が私に「政府の数値と違う」と言われると違和感があるのだ。

 

 この問題は発達した社会における専門性と専門家の自由と裁量という重要な内容を含んでいるので、さらに少し深く考えてみたい。

 

つづく