幕末の日本の科学  

 松蔭が日本を救うことができた種々の理由の内の一つに、日本国民という民族が比較的働き者の国民の多い東アジアの中でも飛び抜けて頑張り屋でもあったこともあげられよう。 

 幕末の日本の工学の進歩に少し目を向けてみよう。幕末の幕府の伝習取締であった永井尚志は海軍伝習所における軍艦スームビング号の訓練を担当し、軍艦を実戦に使用するためには単にその操舵ができると言うことではなく、絶え間なく起こる破損や故障に対処しなければならないことを知る。これが日本最初の造船所である「長崎造船所」ができるきっかけとなったのである。 

 しかし、実際に飽の浦に機械工場の建設に着手してみると、大きな困難が待ちかまえていた。オランダから主要な機械は運んできたものの、日本には工具や補助的な器具はほとんどない。なにか必要なものがあるとオランダまで取りに行かなければならないのであるから、とんでもなく非能率であった。それにオランダ人と幕府の官吏との関係もままならない。 

 そんな状態で進んだ日本初の重工業であったが、それでもやらないよりましで、一八五九年には観光丸のボイラーの取り替え工事ができるまでになっていた。造船所を訪れたイギリスの軍医レニーは、こう言っている。 

 「八月七日長崎の日本蒸気工場を見学。これはオランダ人の管理下にあり、機械類は総てアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見て回ったが、なかなかの広さであった。そして、この世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する種々の仕事に従事しているありさまをまのあたりに見たことは確かに驚異であった。」 

 西洋の文明が届くはずもない、この「世界の果て」にできた日本最初の近代的造船所は維新後、長崎造船所と改称、やがて三菱のドル箱に一つになり、太平洋戦争では世界最大の軍艦「武蔵」を生むのである。 

 さて、それでは明治初期の理学工学はどのような状態であったのだろうか。それを明治維新に出版された書物を元に推察してみる。 

 幕末の日本では開成所を中心に、物理化学の重要性が叫ばれた。しかし、実際には欧米書を読むなり、中国訳書に依存するなりする程度で、まだ日本人が自ら書いた書物や編訳書を生むに至らなかった。維新直後福沢諭吉の究理本が流布したのもそうした間隙をぬったものと言える。 

開成所関係の書物が出現するのは維新後、江戸開成所の大阪移転が実現し、神田孝平や箕作麟祥、田中芳男らが大阪に行き、府管轄の舎密局ができてからで、内戦の始まる前から開始されていた竹原平次郎訳の「化学入門」に加えて、大阪開成学校でリッテルの口述した「理化日記」や造幣の問題から同じく大阪開成学校でオランダ人ハラマタの口授した「金銀成分」が出る。大学東校の舎長で、その育ての親の一人、石黒忠直が「化学訓蒙」を増訂したのもこの頃である。 

 杉田玄白の「解体新書」が有名であるように、江戸時代には数学と医学が主な自然科学であった。明治の初期にも医学方面の著書訳書は依然として旺盛であった。たとえば、明治元年には松山棟庵の「窒扶新論」、大阪医学校発行のバウドインの口述書である「日講記聞」や海軍病院刊行の「講延筆記」などあげればきりがない。 

 維新直後の数学は他の自然科学に比べて著しい特異性を持つ。それは物理化学工学などの分野では、日本はもともと欧米に対抗しえるものは皆無であり、総てが欧米の一方的輸入直訳だったのに対して、数学は日本国内に固有にものを持っていたからである。 

即ち俗に言う「読み書きそろばん」の一つとして商算が根強く庶民の間に浸透していたからである。その基盤の上に確固とした和算が学問としてあった。既に算術関係では「塵劫記」のような名著が存在した。そのような和算の基盤があったので、洋書系の書物にも程度の高いものがあり、「洋算発微」などがあげられる。 

 一方、工業技術は電信、鉄道、造船、造幣などの分野で、ヨーロッパ人からの直接的指導を受けて始まった。総ては官営工場によって現場を中心に進んだのである。 

機械分野では更に遅れて、明治四年になって「機械事始」が出版されたが、これは「蘭学事始」を連想される題で、当時の機械工学の程度が推察される。四章立てのこの書物の最後の章には蒸気機関が水車の機械と並んで紹介されている。 

 日本が欧米の植民地になるのを防いだ副次的環境として、インドに起こったセポイの乱、と中国の太平天国の乱があげられる。主としてイギリスの東南アジア征服はアヘン戦争で見られるようにかなり強引で身勝手であった。そのため、征服された民族からは反撃の運動が起こり、それがセポイ、太平天国の乱となり、征服者のイギリスを悩ませるのである。 

そのため日本に対しては欧米列強の態度はすこし緩やかとなり、それが日本人の勤勉さ、極東の最も恥にある国という地理的条件、さほど大きな資源が無かったことが日本に幸いしたのである。 

 ただ、軍事力を決める工学的基盤、社会的基盤という点では彼我の間に大きな溝があったという事実は認識しておく必要がある。一八五年代、松蔭が苦しみに藻掻いていた頃、ヨーロッパはベッセマーの転炉が出現して巨大な製鋼工場が建設される。萩では長崎から手に入れた図面をもとに反射炉の建設を急いでいた。技術力、規模、いずれにおいてもとても比較になるものではない。 

萩の反射炉が実際にどの程度使用されたか、幕末に使われたかについてはやがて科学的な判断が行われようが、使われても使われなくても、萩の反射炉が西洋工学をとにかく早く取り入れて日本を救おうとした意志の現れであり、所詮役には立たなかったと言うことである。 

それよりも、中世には鐵の輸出地帯であった中国地方野製鉄業がその後拡大せず、時代の波の中に消えてしまい、日本のために活躍すべき時には何の役にも立たなかった原因の方が、日本の工学と文化を考える上で重要である。 

 科学の発展は軍事の様相を帯びると言われる。確かに、多くの工学や科学は軍事に使用され、軍事に使用されることによって伸びた。火薬は土木工事に用いられるより多く殺戮に使用された。鐵は生活程度もあげたが、軍艦大砲に使用され「鐵は国家なり」と豪語した。鐵の軍艦に乗り、鐵の塊の大砲から鐵の玉が発射され、柔らかい人間の皮膚を破壊する。 

 しかし、工学が軍事につながるのは万国共通ではない。日本の多くの工学は軍事には結びつかずにむしろ「芸術」につながっていく。日本刀は優れた鍛造技術で作られ、日本刀の鍔は手を守る部分品であるが、日本刀はその機能を高めるより、芸術品として珍重され、鍔は複雑な模様を描いてさらにその芸術性を高める。国一国の支配より茶器一つという香り高い日本文化が工学の進歩を妨げたのである。 

 工学の文化は日本文化の至る所に見られる。世界初の大型木造住宅を造り、世界一大きな鋳造仏を作った奈良の工学はその後、更に大きな建造物、更に大型の鋳造品を作って軍事に役立てようとはしなかった。 

建築物はむしろ次第に平べったくなり、優雅な建造物へと変身する。そして最後は「庵一つ」へと還元していく。奈良の大仏殿を作った建築工学が再び軍事に使用されたのは、織田信長の安土城をあげることができる程度である。鋳造品は軍事にほとんど使用されなかった。 

 工学が人類の福祉のためにあるのなら、工学が戦争につながる西洋文明より、工学が文化に昇華する日本文明の方が優れていよう。

 

滅び去った日本文化・・・私たちが守るべきもの 

 開国と明治政府の樹立によって、旧来の日本の文化が崩壊し、西洋文明に蹂躙されていったのは理学、工学の世界だけではなかった。日本という世界でも珍しい文化を持った民族が西洋の波に大きく飲み込まれていくのである。 

 明治維新に日本を訪れた欧米人が当時の日本を描写したものを渡辺京二さんが「逝きし日の面影」という本にまとめている。 

 ……イギリス大使オールコック

 「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらの良く耕作された谷間を横切って、非常な豊かさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見て、これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏してる土地とはまったく信じられない。むしろ、反対にヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民は居ないし、またこれほどまでに穏和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった。気楽な暮らしを送り、欲しいものも無ければ、余分なものもない」 

……カッテンディーケ

 「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心をもたないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。」 

……ハリス駐日アメリカ大使。一八五七年。

 「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者も居ない。―――これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所為であるかどうか、疑わしいくなる。 

私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」 

……スイスの遣日使節団長アンベールは自国の職人の回顧と共にこう言っている。

 「若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きているのを見た。労働それ自体が最も純粋で激しい情熱をかきててる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分の作るものに情熱を傾けた。 

彼らには、その仕事にどれくらいの日数を要したかは問題ではない。彼らがその作品に商品価値を与えたときではなく、かなり満足できる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるのである。」 

……リンダウ。長崎近郊の農家にて。一八五八年。

 「火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子が慌てて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰をかけるように勧め、母親は丁寧に挨拶をして、お茶を出してくれる。 

家族全員が私の周りに集まり、子供っぽい好奇心で私をジロジロ見るのだった。……幾つかのボタンを与えると、子供達はすっかり喜ぶのだった。「大変ありがとう」と皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて可愛い頭を下げて優しくほほえむのだったが、社会の下層階級の中でそんな態度に出会うのは、全くの驚きだった。 

私が遠ざかって行くと、道のはずれまで送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ「さようなら、またみょうにち」と私に叫んでいる。あの友情のこもった声が聞こえるのである」 

……モース「日本人の住まい」

 「鍵を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りをしても、触っていけないものは決して手を触れぬ。」 

 イライザ・シッドモア。一八八四年からしばしば日本を訪れる。

 「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。 

子供らは泡立つ白波に立ち向かって利して戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」 

 幕末の日本とほぼ同時期のイギリスは世界制覇の勢いを持っていたが、エンゲルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」(一八四五年)でイギリスの都市を描写する。 

 「貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。 

貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に披露してしまうまで酷使される。」 

 明治の日本は文化、科学、工学など西洋文化を取り入れ、「文明開化」と呼んで欧米の支配を逃れた。確かに、それは成功したように見える。むしろ、力を蓄えた日本は日清戦争で清の艦隊を殲滅した。 

海軍を創生して何とか国力の向上を目指していた清はこの戦いで完全に海軍を失い、二度と再び制海権を得ることができなかった。日本は、それ以降、太平洋戦争に至るまで日本はアジアの雄として、中国、ベトナム、フィリッピンなどを欧米の代わりに占領して日本の植民地としたのである。 

 江戸末期の外人が記録した光景の中には、われわれが子供の頃の体験の中にも僅かに残っている。時には激しい台風や家庭の不幸に見舞われたりはしたが、それは例外的なことで、生活のほとんどは「楽しい日本」であったのだ。それが今では生活の中で楽しいことが例外的になり、忙しく辛く、疲れることが日常的でもある。 

 ベーコンが「自然科学は自然を明らかにすることによって人類の福祉に貢献する」というのは正しかったのであろうか?蒸気機関と鐵の生産力はヨーロッパの悲惨な生活を追放したように見える。確かに、国民統計などの数字の上では乳幼児の死亡率、平均寿命、文盲率、エンゲル係数などは著しく向上した。 

 エンゲルスは工業化以前のイギリスの織布工の生活を次のように描写している。

 「労働者は全く快適な生活を楽しみながら、のんびりと暮らし、極めて信心深くかつまじめに、正直で静かな生活をおくった。かれらの物質的な地位は、その後継者の地位よりもはるかによかった。彼らは過度に働く必要はなく、彼らはしたいと思った事以上はしなかったが、それでも必要なだけは手に入れていた。」 

 このエンゲルスの記述は先に示した幕末の日本の職人の生活に極度に似ているが、工業化以降のイギリスの労働者とは全く違う。工業は見かけの数字だけを良くし、工学のもたらした生産性の向上による富は国民に均等に分配されず、一握りの富んだ商人の醜い道徳が国民全体に苦しみを与えたのである。 

 松蔭のおかげで植民地化を逃れた日本は、アジアでももっとも進んだ国として、先進国の仲間入りをしている。これはとりもなおさず松蔭のおかげである。工業は進展し、見かけ上の繁栄が日本を覆っている。 

しかし、同時にはっきりしていることは、われわれは物質的な繁栄と植民地化されなかったという幸運とともに、本来日本人が持っていた優れた精神的風土を捨ててきたのである。科学、工学とはそこに住んでいる人の必要もないのに、むやみに橋を造ったり、文化財を壊してコンクリートで固めた建造物を造ったりすることではない。 

もし、そのようなことが行われても、それは工学がなしたものではなく、一部の富んだ商人のたくらみに過ぎない。工学はベーコンが宣言したように「人類の福祉に役立つ」ものであり、決して醜い商人の手先でないことを「工学ルネッサンス」が示すことになろう。 

 そうであるからと言って本論は工学が社会になしたことを否定しようとするものではない。確かに工学は人間の福祉に貢献できる。日本の昔の家庭にあるトイレは汚く、不潔であった。それが今ではきれいな水洗トイレになった。それを主婦は喜んでいるだろう。トイレに水道を引くには土木工学、機械工学、電気工学、材料工学の学問が必要である。 

 中世のヨーロッパでは足を手術するときには麻酔も掛けずにノコギリで切断した。苦しみ藻掻く患者を数人で押さえつけ、牧師様が足をノコギリで切れらる患者の頭に手を当てて、主の恵みを願う。それが今では清潔な手術室で最低の苦痛で手術を受けることができる。手術は医学の進歩だけでは行えない。電力、電子、機械、材料、化学、建築などの多くの工学が必要である。 

 テレビの功罪は複雑ではあるが、良い映像が提供されれば、そこに演じられる音楽や演劇は私たちの生活の質を上げるという点では異論は無いであろう。 

 しかし、一方では工学は汗して働く機械を奪い、社会をより複雑し、素朴な人間の楽しみ、幸福を奪う手伝いをしたことも確かである。工学の評価はそれをまとめて論じたり、適否をある側面からのみ述べることはふさわしくない。工学の要素を一つ一つ取り上げて、人類に真に役立つ工学だけ取り上げることが人間の知恵であろう。 

 また、日本の精神の崩壊の総てを工学に委ねるわけにもいかない。松蔭が日本を植民地化から救ってくれたのだから、われわれは知恵をもって「一握りの悪徳商人」にならないようにしなければいけない。日本には江戸時代の豊かな文化の香りが残っている地域が多い。それを単に効率的に生活できるという理由で破壊してはいけない。 

日本の文化はその地方の人たちだけのものではなく、日本人全体の宝であるからである。しかし文化を残すのは容易ではない。具体的な事実を前にすると、文化を壊してより効率的な方法を採りたくなる。 

 しかし、現在でも世界で珍しいと言われた日本人の高い倫理観、社会の安全は多少、保たれている。たとえば自動販売機を置ける国は世界では少ない。文化が優れ、世界を征服したと言ってもその欧米で自動販売機をおくとすぐ壊されてしまうのである。また、女性が夜、不安もなく歩けるのも日本だけである。アメリカは暴力と犯罪が生活を覆っている。そんな文明が日本より優れているとは言えない。 

 もし日本人が世界でも特別であると言われるこの高い道徳性に基づく現在の快適な生活を失ったら、日本はその心、その形、その内容まで西洋化され、日本国という形骸のみが残っているに過ぎなくなる。それは松蔭が命を懸けて守ろうとした日本であったのだろうか。 

 松蔭が守ろうとした日本は、潔い正直な日本人、美しい自然の日本国土、そして尊敬すべき日本の文化であった。松蔭が守ろうとしたのは、本論のはじめに掲げた松蔭の句の、まさに「大和魂」なのであって、南蛮夷荻の魂ではない。 

礼節を忘れた若者、鍵を掛けなければ外出できない町、文化財の上に掛ける道路、それが平気で行われるような日本なら、日本を守ろうとした松蔭の死は無駄になろう。 

 最後に、松蔭によって救ってもらったわれわれの魂は、今や松蔭の崇高な魂に及びもつかないほど汚れてしまったことを、松蔭辞世の歌に読みとることとする。 

「生死を超越しても残るは、なお祖国の運命である。彼は入江杉蔵にあてて、祖国永遠の運命を託すべき人材養成の一助として、尊攘堂と学習院の建設・振興を依頼して死を待つのである。」(奈良本) 

 今や日本男児の中に、死を賭しても祖国の運命を守る、という気概をもって仕事に当たっている人を見出すのは困難である。

 生死由来宜しき所に任す、
夫の天命を楽しんで復たなにをか疑はん。
皇道の陵夷、夷狄の熾
成さんと欲す日本真男児

                                             おわり

 

主な引用資料

一、 古川 薫「覇道の鷲 毛利元就」新潮社(一九九六)

二、 奈良本辰也「吉田松陰」岩波文庫(一九九三)

三、 武田楠雄、「維新と科学」岩波新書(一九七六)

四、 渡辺京二「われら失いし世界」エコノミスト(一九九五)

五、 ツバイク・シュテファン「歴史の決定的瞬間」 (辻 星訳)白水社(一九七一)