資源を節約し、ゴミを減らすのに「リサイクル」が行われている。政府もメディアもリサイクルの重要性を繰り返し国民に訴えていたように感じられるが、「リサイクルは有効ではない」という私の考えに対して、「政府は最初からリサイクルよりリユースを勧めている」と言う反論がある。
この反論について少しコメントしたい。リサイクルと同じ間違いをまた起こさないように。
リサイクルがうまくいかなかった理由は「希望」と「現実」をよく区別していなかったからと私は思っている。誰でも「使う物を減らすより、同じ量だけ大量消費して、リサイクルしてもう一度、使う方がよい」と考えるのは当然だ。
つまりリサイクルとは「大量消費を続けたい」という希望と「資源を節約したい」という希望をつなげたものであり、「現実的に可能か?」というチェックが無かったのである。
「リサイクルがうまくいかなければリユース」、もしくは「最初から政府はリユースを優先している」というと論理も、現実的には危険である。またリサイクル騒動のように国を挙げて「リユース推進」をやると失敗し、また資源を多く使うか、国際的な信用を失うことになるだろう。
その理由は次の通りである。
20世紀は生産拡大の時代であり、また弱肉強食の世界でもあった。2つの大きな戦争があり、自動車製造競争にかったフォードは大企業になった。それを誰も不思議におもわず、競争こそが明日を築くと信じたのだ。
競争の社会では「自分が目指すこと」と「自分の生活」は全く別物でも良かった。「スポーツカーの製造メーカーの社長さん」がスポーツカーを運転するのが嫌いでも、そんなことは問題ではなかったし、ものすごいスピードをだすスポーツカーで交通事故が増えてもそれもさほどは糾弾されなかった。
21世紀は環境と共存の時代であり、さらに言えば多様化の時代と言われる。その時代には、「自分がなしえないことを目指す」というのには慎重でなければならない。その典型的な一つが「リユース」である。
リユースは英語なのでわかりにくいが、日本語で言えば「古着を着る」「古いテレビで我慢する」ということである。自分が「捨てるからリユース」といっても、それを欲しい人がいなければ社会システムとして存在できない。
そして「貧乏人がリユース品を買えばよい」「リユースするという建前だけあればよいので、100分の1をリユースし、それ以外は捨てて良い」というのも同じく21世紀の考え方ではない。
「環境」とは「自分もできること」であり、現在の日本のようにリユースを唱えている人たち、特に指導層、が古着を着る意志がないのだから、それだけでリユースは口にしてはいけない。
自分のものを長く使うとか、親戚や友人になにかの機会に古着やブランド品をあげるのは良いだろう。でも社会システムとして「新品を使う人」と「古着を着る人」に分類するのは、私は反対である。
それなら、給料の格差を小さくして、みんなが新しい服を買い、みんなが大事に使い、みんなが時々、気に入らないものがあればそれをリユースに出す・・・そういう「全員参加型」が「環境」なのである。
私はまだ古着を買う決断ができない。だからリユースとは言わない。
つづく