戦後の日本に起こった大災害:水俣病に関する書籍は1000を超えるとされているが、その中でも将来、優れた著作として評価されるであろう本が永松俊雄:「チッソ支援の政策学」として成文堂から20071月に出版された。

 すでにこのホームページでも水俣病については解説の形で何回か執筆したが、この本に巡り会い、まだ理解は不十分であるが触発されたことについて整理を行った。水俣病に関心のある方は書籍を求められることをお勧めする。

なお、出版された書籍は長い実証的研究に基づいて書かれたものであり、主として法律、行政の視点からの整理である。またここに記載した科学の立場からの感想と書籍の内容とはかなり異なり、書籍の方は学問的な実証を踏まえたものであることをお断りしたい。

【私の見解】

 すでにホームページに執筆したように、水俣病というのは、

1)     水銀が毒物だということは水俣病でわかった。

2)     科学が社会に大きな影響を与える時代に法律や行政、マスメディアがどのように行動すべきかが決まっていなかった。

3)     日本社会全体が「片づけること」に注意が行き、二度と悲惨な事件を起こさない為の教訓を活かすことに興味がなかった。

という特徴がある。

【原因者】

 「水俣病の原因者はチッソである」と100人が100人共に言う。でも私は違うと思う。水俣病が起こる前の法体系、社会概念では「原因者はチッソ」であった。しかし、水俣病が教えてくれたこと、水俣病の犠牲者の霊を弔う為には「原因者」の概念を変えなければならない。

 「水俣病の原因者は科学的手段を用いて豊かな社会を築こうという意図を持っていた社会」である。チッソはその犠牲者の一つに過ぎない。たとえ、チッソが分析値を隠し、工場の運転を継続したからと言って、チッソが加害者になることはない。まず、それが出発点だろう。

 水俣病の裁判では科学というものを知らない裁判官が「水銀は有毒である」という前提にたって判決を下している。裁判は過去の事件を裁く行為であるが、判決の多くは「事件が起こってからの知識や変化」、つまり裁判の対象となる事件から見ると将来の知見を加味する。この事件でもそうである。

 我々が自然科学的行為をする場合、その時点で判明している学問に基づいて行動する。たとえば蛍光灯の製造を始めるとき、純粋に科学的には「蛍光灯を10年間使い続けていたら、国民の1万人に一人、つまり1万人が失明する」という可能性は高かった。また「割れやすいガラスでできた蛍光灯の中の水銀が社会を汚染して水俣病類似の患者が1万人出る」という可能性もかなりあった。

 でも、省エネルギーになるということで蛍光灯は製造を始め、社会に受け入れられ、そして現在のところ災害はもたらしていない。つまり、チッソ水俣工場が災害をもたらし、蛍光灯はもたらさなかったというのは結果論であって、始めるときにはわからないことなのである。

 それが「科学」というものだ。

 社会も「新しい科学で何かを始めれば危険を内包している」ということをすでに知っている。でも、「豊かな生活ができるのなら、目をつぶろう」とする。そして、災害(事件)が起こると当事者だけの責任にする。法律も社会も偶然に発生する犠牲者(チッソと漁民)だけに問題を押しつける。

 その苦悩が「チッソ支援」という形で進んできた。現実とかけ離れた法律と社会、そしてその時だけの論調で進もうとする新聞、さらには事件自体を忘れたい学会・・・総無責任体制が次の災害を呼ぶ。四日市喘息、カネミ油症事件、ミドリ十字エイズ・・・・

【保証金とは何か?】

 事件が起こると社会の関心は「お金」だけになる。原因追及は「誰がお金を払うか」という点で関心があるのであり、それ以外のことではない。水俣病もそうであった。最初の段階では「自らの責任になっては困る」というチッソ側と、「原因を特定して会社を追いつめないと保証金が出ない」という二つの力の争いとなった。

 会社が払うとなると、次には会社がつぶれてはいけないということに努力が払われる。

 ほとんど意味がない努力だ。災害はすでに起こり、患者さんは可哀想に回復しない。だから「お金で解決する事柄」ではないのである。お金は必要だが、それは患者さんの治療や生活を保障するものであり、それを支払う余裕は日本社会に十分ある。

 重傷患者さんは約1万人であり、今の価値で一人5000万円の治療や補償をしても5000億円にしかならない。道路公団の借金だけで30兆円である。道路が「前向き投資」とすると、前向き投資に30兆円出すことができるなら、水俣病という「後ろ向き投資」に60分の15000億円は大した金額ではない。

前進だけにお金を使うか、それとも後始末もするか、社会の意志次第だ。

 仮に水俣病が起こった時、国が「会社に何とかさせよう」と思わず、「これは社会全体の問題だ」と判断して患者さんの補償は国が肩代わりし、工場の操業を停止し、速やかにチッソの再建に当たれば、それでこの災害はその時点で止めることができた。

 水俣病は「大型地震」と同じである。人災ではなく天災である。ところが「科学的手段を用いて豊かな社会を築こうという意図を持つこと」がどのような天災に見舞われるかという研究なしに進んだ結果、人災と天災を間違えたのである。

 地震に原因者を求めてもダメである。せいぜい、大陸間プレート移動という犯人が見いだされるだけで、犯人に補償を請求してもお金は払ってくれない。それにもともと、国家というのは他国からの突然の侵入と皆殺しのような天災レベルの災害を守るために存在する。前向き投資はその次である。

 参考にさせていただいた書籍の159ページに記載されているように、「石油化学工業育成計画と日本の地域工業化による高度経済成長の時代に発生した、重大で深刻な産業公害をめぐるセクショナリズムのもたらした大きな失敗である」とされ、「各省間の利害調整の困難さ」とまとめることができるが、人間という動物が巨大科学と高度な社会を維持する力は「省庁間の壁」などという矮小な概念と違う。

 残念ながら、水俣病についての人間の努力と時間は、「お金」に費やされた。でも可哀想なことに水俣病は治らない。だから病気になってしまった人はできるだけ手厚く補償しなければならない。その問題と原因、および将来の再発防止とは違う。

 多くの労力は「再発防止」に注がなければならない。そのためには水俣病を改めて「激甚災害」と指定し、チッソの責任を全面的に免除し、再スタートを切ることだろう。

 我々の社会の目的は犯人捜しでも、省庁の縄張り争いでも、法律論でもなく、今後の科学による大災害から患者さんを助けること、再発を防止することだから。

つづく