松蔭の登場:  第一の条件  

 民族がその持てる力を発揮するには、条件がある。その一つは「それまで眠っている」と言うことである。民族は「活動期」と「休眠期」を経ながら歴史を歩んで行くが、爆発的に力を発揮するためにはそれまで眠っている必要がある。それも、あまり居心地の良い場所で眠っているのではなく、たとえば岩場とか風の吹きすさぶところとか、ゆっくりと眠れないような環境で、それでも我慢しながらじっとしている状態が必要である。 

 江戸末期の日本は織田、豊臣、徳川と続いた覇権争いで疲れ、二百五十年ほどの休眠期、徳川幕府の時代に入っていた。特に関ヶ原で敗れた西国の大名はそれぞれ領土を失い、多くの家来を抱えて苦しい生活を強いられた。

 関ヶ原で苦杯をなめた西軍の大将格であった毛利の長州、島津の薩摩が共に明治政府では中心的役割を果たしたのは、歴史の当然でもある。

  もともと毛利家が中国地方十カ国を支配した時代はそうは長くない。毛利元就の時代に大内と尼子を破り、元就の力量で巨大戦国大名になった。その後関ヶ原で西軍につき、薩摩の島津と共に苦杯をなめ、広島を本拠地にしていた毛利家は百五十万石を三十六万石に減封され、萩に移された。

 元就の時代には三十六万石よりずっと小さい毛利家ではあったが、巨大大名になる過程で家臣は増え、石高が五分の一になるのは大変なことであった。

  徳川幕府開府後、このような大きな減封にあったのは一人毛利家のみではない、越後の上杉は新潟から会津、そしてさらに米沢と、その石高も十分の一になった。減封になった大名の家臣は貧乏に耐え、かつての栄光を想い、徳川二百六十年を過ごした。

 大大名の家臣にはもともと優れた人材が多く、それが戦争に敗れたり、厳封にあった悔しさをバネに捲土重来を期して藩士の教育や軍事にいそしむ。その中で挫折もあるが、同時に徐々にエネルギーが蓄積される。

  世界的にも、民族が爆発的にその力を発揮するには、第一に長い休眠期と居心地の悪い環境にあることを歴史が示している。そのいずれもが江戸末期の西国の諸藩の多くを幕末に飛躍する適格者にしたのである。

 

松蔭の登場: 第二の条件

  一八三八年の春、アヘンの密貿易に手を焼いた清の道光帝は全国から有能な人材を登用した。その一人であった林則徐は皇帝の信頼を受けてアヘンの禁止に乗り出す。相手になる商人はイギリスを中心とするヨーロッパのアヘン船であった。

 林則徐の強力なアヘンの取り締まりは当然、アヘンで利権を得ていた人々との間に様々なトラブルを呼び、遂にアヘン擁護側のイギリス艦隊の出撃となる。

 イギリス政府は、アヘン貿易を守るという大義名分の立たない戦争に乗り気ではなかったが、それでも結局、イギリス商人の利害を守るために艦隊の派遣を決意した。その出陣決定の直前、イギリス下院では青年代議士グラッドストーンが政府の批判演説を行う。

  「清国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。それなのになぜこの正当な清国の権利を踏みにじって、わが国の外務大臣はこの不正な貿易を援助したのか。これほど不正な、わが国の恥さらしになるような戦争はかつて聞いたこともない。

 大英帝国の国旗は、かつては正義の味方、圧制の敵、民族の権利、公明正大な商業の為に戦ってきた。それなのに、今やあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられるのだ。国旗の名誉はけがされた。もはや我々は大英帝国の国旗が扁翻と翻っているのをみても、血湧き肉おどるような間隙を覚えないだろう。」

 蒸気機関と鐵の生産力で有頂天になっていた、当時のイギリスにもグラッドストーンの様な正義の人もいたが、結局、イギリスは政府の決定通り遠征軍を極東に送った。

 戦争は約二年に及んだが、最後の決戦は一八四二年、四月から五月の作浦と鎮江で行われた。作浦の戦いでは、イギリス軍の戦死九名に対して、清軍は女子供を含み、イギリス軍の埋葬者だけで千名を数えたと記録されている。

 イギリス軍は好んで女性、子供の殺戮をしたわけではなかったが、戦いは圧倒的な火力を持つイギリス軍と貧弱な清軍である。戦いと言えるものではなく、事実多くの女性子供が殺された。

 また、鎮江ではイギリス軍の戦死者三十七に対して、千六百人の清軍が死亡した。まさに圧倒的な火力を使っての中国人の虐殺と言えるものである。

 八月には清は降伏し、香港の割譲、戦費など二千百万ドルの賠償を支払うことになった。勝てば官軍の時代である。アヘン戦争のきっかけやその大義名分がどうであれ、勝った方が正しい。だから、イギリスは香港を手に入れ、賠償金までもらうのだ。

 他国にアヘンの貿易を迫り、アヘンの密輸を認めないと言うって戦争を仕掛け、圧倒的な力で虐殺し、その上国土の一部を取り上げ、金まで徒労というのだから、まさに世にも醜悪な江寧条約である。しかしさすがに戦争のきっかけとなったアヘンについてはこの条約に何も触れられていない。

  このとき割譲された香港は今年返還の時を迎える。テレビで伝えられる香港の返還は何かわれわれにも華やかなものが感じられ、返還の式典にイギリス元首相が列席して愛嬌を振りまいている。式典に参加する中国人はどう感じているのであろうか。香港返還の式典こそ、ヨーロッパ列強が今から百五十年前、世界を力で支配した醜い歴史の証拠であり、イギリスの国旗の下で行われた恥を晒すことになるのである。

 それはともかくこの理不尽なヨーロッパの行為は隣国日本に衝撃を与えずには居られなかった。当時、長崎でこのアヘン戦争についての詳報に接した吉田松陰は驚愕した。平戸滞在中に松蔭が読んだとされる書物に「阿芙蓉彙聞」七冊があり、松蔭が必読書としてあげているものにも「阿片始末」がある。松蔭が読んだ書の一文字一文字が心に刺さり、それが松蔭の口を通して弟子達に語られ、やがて日本を救うことなる。

 第二の条件は、眠りについている民族が厳しいムチを打たれることである。居心地の悪い環境にあったも、どうやら休んでいられるような場合には、人間は起きあがらない。周囲の状態が予断を許さず、このままでは自分たちの生死が問われると言うことになって、人間は初めて起きあがるのである。

 

松蔭の登場 : 第三の条件

 歴史の大きな転換期には、まるで歴史の流れを個人の体の中に取り込んでいるかの様な人物が現れるものである。世界史の大きな舞台では、ローマのシーザー、蒙古のチンギス・ハーン、そしてフランスのナポレオン、日本では豊臣秀吉などのがその典型的な人物である。もちろん、どの国にも数人以上のこの種の人物を捜すことができる。それぞれが偉大な人物ではあるが、多くは夜空に輝く流れ星のように、急激に光り輝き、そして不幸なうちにその人生を終える。

 それは、その人物が歴史を動かしているようでもあり、あるいは、トルストイがその小説の中で書いているように、歴史がその人物を翻弄しているようでもある。

 一七九二年、フランスは革命のさなかにあった。ロべスピエールが力を付ける寸前、まだルイ十六世は生きていた。状況は流動的で、干渉してきたオーストリア皇帝とプロイセン王に対して戦線が布告された。

「自由の子よ、武器を取れ!戦旗はひろげられた!」

という呼びかけが至る所に溢れた。

 長い封建制の時代が破られたエネルギーが沸き返っていて、世界中の熱気がパリに集まっていたのだ。今から見ると無謀に進んだフランス革命はそれだけの時代の重みがパリ市民をかり出し、ストラスブールのような周辺の町の住民をも駆り立てたのだった。

 四月二十五日、ストラスブールのディートリッヒ市長に依頼されたルジェ大尉は静かに机に座りながら、市長から頼まれた軍歌の作曲に取り組んでいた。戦争となり、進軍開始ともなると軍歌の一つも要るだろう。それもこれまでのような古くさい歌ではなく、新しい自由のもとで演奏されるにふさわしい曲が必要なのであった。

ルジェは趣味で曲を作ることはあったが、専門の作曲家ではなかったし、軽い気持ちで市長の頼みを聞いたものの、職業的な作曲家のようには詩も曲も湧いてこなかった。

 螺旋階段を上りながらと歴史小説家のツヴァイクは書いている。ルジェはフランスの畑が外国の軍隊に踏みにじられて、肥料の代わりに自分たちの血が注がれる農民の叫びが聞こえた。

「行こう、祖国の子らよ、
栄光の時は来た!」

最初の二行が思い浮かぶと、その後はルジェの筆が勝手に動いた。

「祖国への神聖な愛よ、

みちびき支えよ、こらしめのわれらの腕を!

自由よ、最愛の自由よ、

たたかえ、われらのその守り手とともに!」

 渾然としてわき上がる間隙に包まれて、ルジェがこの歴史的な作曲を終えたのは未明だったという。ルジェは自分の体から興奮が消え、深い眠りについた。

 その夕方には依頼した市長の家で市長夫人同席の中で新しいこの行進曲が披露された。歴史的な多くの場面がそうであるように、その場に居合わせた人々は、まさか一つの永遠の命をもったメロディーがあたかも翼をもった天使のように地上に降りたったのは感じることはできなかった。

「お集まりのみなさんはたいへん満足してくださいました」

 記録に残っている市長夫人はそう手紙に書いている。不滅のメロディーがこのような普通のほめ言葉でそのデビューを飾るのも、仕方のないことであった。歌はそのまま忘れ去られ、行軍の時に演奏されることもなく、歴史の中に藻屑のように消えようとしていた。

しかし、これも歴史が証明するように、作品にやどっている圧倒的な力は閉ざされたままでその生涯を終わることはない。どこからともなく唱われ始めたこの曲「ラ・マルセイエーズ」は爆発的に革命のフランスに拡がった。

何という素晴らしい、心を奪う歌なのか!

 不思議な力を秘めたは、フランスのありとあらゆる戦場で高らかに唱われ、自由の感激を味わいながら多くの兵士が死んでいった。

 ルジェは一夜の作曲で大作曲家になったが、もともとそれほど才能のない男であったので、再び優れた曲を作曲することは無かった。むしろルジェの晩年は犯罪を犯して監獄に入ったり、ナポレオンの誘いを断って毒づいたりという老人になり、片田舎でその一生を終わる。

 なぜ、ルジェが一夜だけ天才になったのだろうか。世界の歴史の大転換点にあって、軍靴の響く夜に霊感を受けたのであろうか?

 吉田松陰はルジェよりもはるかに高潔な人物であったが、時代の流れをそのままその体に受け、それを体現した人物であったという点ではルジェと同じ一人だったのである。

 一八五八年、この年は吉田松陰にとっても特別な年であった。四月には反動派の井伊直弼が大老に就任し、九月には老中・間部詮勝が上京して志士の逮捕を始めた。事態は急速に進み、松蔭の心は燃える。

十一月には老中暗殺の計画を立てて、血判書を作り、資金の調達を計画する。これにはさすがの松蔭の門弟も「やりすぎではないか」と後込みをする。久坂玄端、高杉晋作、飯田正伯、尾寺新之丞、そして中谷正亮らの高弟の考え方は、いわゆる常識的なものである。松蔭は無謀にも老中を殺害して幕府に打撃を与えようとしているが、時期が悪い。いま倒幕の旗を揚げたにしてもそれは失敗に終わるだろう。そのうちに混乱が来るからそのときを狙うのが上策である、というものである。

確かに、このような考え方は「普通の人」を納得させるには適当であるし、師を思ってかばう高弟達の思いは胸を打つ。しかし、松蔭は違っていた。

 「沢山な御家来のこと、吾が輩のみが忠臣に之れなく候。吾が輩が皆に先駆けて死んで見せたら親感しておこるももあらん。夫れがなき程では何方時を待ちたるとて時はこぬなり。且つ今日の逆焔は誰が是を激したるぞ、吾が輩に非ずや。吾が輩なければ此の逆焔千年経ちてもなし。吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。

忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むようなものではなし。江戸居の諸友、久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」

 今は時期ではない、というのは死んでも敵を打ち破る気概がなく、自分の立身出世も考えの中に入っているのじゃないか、何時死んでも良いのなら、今死んだらよい、という松蔭の言葉はそれが真実のものであるだけに、弟子の心をも貫く。

 確かに、必要なものは必要なのである。やらなければならないことは何時やっても同じで、どうせならすぐやるべきである。人は多くいるのだから、自分が死んでもそれはかまわないではないか。自分の身の危険と関係ない我々には理解できることでも、当事者には判らないことだ。

それは、自分の意見がいかにも最らしく見えてもその中には自分が大切であるという利己的な考えが入っているのである。それが渦中に居ても判ったのは松蔭、ただ一人である。

 第三の条件は歴史をその体内に宿した人物の出現である。

 居心地は悪いが長い眠りで爆発力をつけた民族、生死にかかわるような急激な環境の悪化、そして歴史そのものをその体内に宿した強力な個性を持った人物、この三つが重なった地、それが幕末の萩であり、そして吉田松陰であった。

日本が植民地にならなかったのはなぜか?という問いに対する答えは既に与えられた。それは、

「日本には吉田松陰という一人の英傑が存在した」ということ、一点なのである。

その点で、松蔭は近代日本の恩人であり、吉田松陰の前には、江戸末期の大秀才、老中阿部正弘や首相伊藤博文なども小さく見えるのはやむを得ない。伊藤博文が松蔭の教えを充分に理解していなかったということも、いわば当然である。松蔭の大きさの前には当時のどんな人を持ってきても格が違うのである。そうだからといって伊藤博文を非難しては博文が可哀想と言うものである。

つづく

(ルジャの記載はツバイクから参考にしている)