反論にお答えするコーナー (3) リサイクルと分離工学

 

 リサイクルをすると、資源をよけいに使い、ゴミが増える・・・この私の計算結果には反論もある。かつて高分子学会で発表した時には私の発表を聞いておられる会員から「売国奴!」という罵声を浴びせられた。

 

 学会という場は学問的なことを冷静に話す場所であるし、もちろん異論もある。だから決して自分の考えと違ったことが発表されても感情的になってはいけないのだが、それでも「売国奴」という言葉がでる。環境とは人の心を騒がすのかも知れない。

 

 だから、ネットでも私の分離工学について反論も多い。反論は二つに分かれる。

1)    リサイクルに分離工学を使うこと自体が間違っている。

2)    分離工学の理論はいい加減か、あるいは私がいい加減である。

 

 そこでこの反論にお答えしてみたいと思う。

 

 私たち人間が使っている「資源」で「分離」という操作を伴わないものはほとんどない。

 

畑で育った稲からお米を取ることを考えてみよう。刈り取った稲から米を取る時に、まず葉や茎と実を分け、実から殻を分離して、さらに白米にするには胚を取り除く。日本酒を造る時にはさらに「磨く」といって米粒の表面を削り取って分離するということもある。

 

鉄の場合もほとんど同じだ。まず地下から鉄鉱石を掘り出し、土や岩石と鉄鉱石を分ける。その後、鉄鉱石を細かく砕いてできるだけ鉄の多い部分を分ける。さらに鉄鉱石を溶かしたり還元したりしながら鉄と酸素、珪素、リンなどを分けていく。

 

このように多くの資源は「畑にあったり、土の中に眠っていたり」という状態なので、まずはそこから取り出し、それを「精製」して人間が使えるものに変えていく。その時の作業はほとんど「分離」である。

 

海から魚を捕るということも分離になる。海という場所に広く魚が泳いでいても、それだけでは人間が利用できない。そこで釣り針や網を使って「海の水と魚」を分ける。それができれば魚を手に入れることができるので「分離することによって資源を取る」という事になる。

 

分離の方法として、原始的には「人間の手で取る」ことが行われ、それが徐々に工業的になり、さらに高度な方法を作り出すのが普通である。

 

以上が「資源と分離」ということの基本的な関係だ。次に「学問」ということについて説明をしたい。

 

人類は四大文明が誕生してから、少しずつ知識や経験を文字にして、それを蓄積した。それまではお爺さんやお婆さんから昔の経験を聞くだけだったが、多くの人の知恵や経験を文字で残せるようになってからというもの、次世代の人は飛躍的に豊かな知性を持つことができたのである。

 

それが学問だった。だから学問にはいろいろな面があるが、その一つが「経験しなくても経験したようにわかる」という方法とも言える。歴史を勉強すれば過去の失敗を知ることができるし、地理と数学を使えば確実に目的のところに行くことができる。

 

資源学でもそれは同じなのである。ある田畑に稲を植える時、どのぐらい植えればその年の秋から冬にかけての食料がとれるか、もし経験しなければわからなければ飢え死ぬ事もある。でも、学問があれば大丈夫だ。収穫量を正確に予測することができるから作付け面積も決まる。

 

資源の学問が主に外国で進歩した。目の前にある山や大自然の中から自分たちの欲しい物を取ることができるのか、それにはどのぐらいの資源がいるのかをまず計算する。もし、1キログラムの資源を取るのに1キログラム以上の資源を使うなら「赤字」、つまり資源の赤字になるのであきらめなければならない。

 

昔は生活が厳しかったから、「やってみたらダメだった」という時には部落全体が死んでいるかも知れない。だから真剣であり、そのような中で資源学が育ってきたのである。

 

自然から資源を取る時、石炭を掘るのも穀物を取るのも人手ですることもあれば機械を使うこともある。でも、これまでの資源学の教えるところでは、人でも機械でも、海でも陸でも、どんな状態でも崩れない原則がある。

 

それが「分離作業量」の計算である。だから、仮に使い終わったペットボトルでも、新品の石油でも、あるいはアマゾンの森林でも同じ計算でできる。それだからこそ「学問」なのである。「経験しなければわからない」というのでは本当の学問とは言えない。

 

使い終わったペットボトルを、住民が協力し、自治体が一所懸命集め、すべてを満点の状態で努力したらどうなるだろうか?それを計算してみた。そうすると、どんなに条件が良くても回収できる資源の35倍は掛かるということになった。

 

つまり使い終わったペットボトルは資源にはならない。一番、理想的に行われた時のことが予測できる・・・だから学問である。

 

次の問題は、ペットボトルのリサイクルが可能になる条件だ。

 

それはこれまで考えもつかなかった新しい「分離方法」を発見しなければならない。もし発見されれば計算が合わなくなる可能性がある。「分別」とか「トラックで集める」などの今まで使われてきた方法の組み合わせでは枠をでることはできない。

 

それに加えて分離工学は大切なことも教えてくれる。

 

リサイクルを希望している人は「リサイクル率を上げた方が良い」と言われることがある。これは間違いである。資源の回収は、回収率を上げればあげるほど資源の効率が悪くなる。

 

たとえばペットボトルの場合、東京の都心だけに限定すれば何とか回収できる物も、北海道から沖縄、さらに小笠原まで含めると回収の意味が無くなる。

 

そんなことも学問、分離工学は教えてくれる。学問が万能ではない。でも逆に無批判に学問を非難すれば我々は原始の世界に戻る。心は人間で情にあふれ、頭は冷静で知に満ちていること、それが良いのだろう。

 

つづく