かくすればかくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂
萩市から西に山陰本線を下る。車窓に入り組んだ海岸線と澄んだ海、なだらかな山並みが浮かぶ。すでに萩市と下関市の間の山陰本線は完全にローカル線となり、高校生を乗せてコトコトと走っている。
………長門市、黄波戸(きわど)、長門古市、人丸、伊上、長門粟野、阿川、特牛(こっとい)、滝部………
日本の鉄道のものとは思えないこれらは萩市から下関市に向かう山陰本線に現れる駅の名前は長州のおかれた歴史的、空間的意味をよく示している。日本地図を開いてみると、縦に長い日本の国土だが、大陸に極めて近い場所に山口県の日本海海岸線がある。
その海岸線からは韓国の釜山とは目と鼻の先。先史時代から多くの渡来人が韓国の釜山から小さな船を操って渡って来た。そして、あるいはそこに住み、結婚し、子孫を残した渡来人が付けた地名が今でも山陰本線の駅名として残っているのである。
地理的に大陸に近い山口県は大陸との歴史の接点になるべき地理的、地形的環境にある。山口県の日本海側の萩市は、一般的には裏日本に位置するが、温暖な気候で風光明媚な素晴らしいところである。
その恵みのいくらかは萩市の沖を流れる親潮と呼ばれる千島海流の影響である。赤道からわき上がる海流が台湾沖で二つに分かれ、その一つが黒潮となって日本の太平洋岸を洗い、もう一つが東シナ海を通って、山陰沖に達する。赤道から発したこの海流は栄養に富んで「親潮」と呼ばれ沿岸に当たる地方に多くの恵みを与えてきた。
その千島海流の流線は真っ直ぐに萩に衝突する。 萩は大陸情報の「直撃点」であった。
大陸から日本国大和朝廷に向かう船頭にとっては二つの経路の選択が迫られる。その一つは南に回って黒潮に乗り、薩摩沖を通って紀州から畿内に入るルートで、この南回りの航路は単純ではあるが、時として激しい黒潮の洗礼を受けるし、第一少し遠回りである。
勢い、大陸からの多くの船は東シナ海をわたり、下関で狭い海峡を潜って瀬戸内海に出るルートをとる。九州と本州の間にあるこの狭い関門海峡は昔から異国の船で賑わい、あるいは壇ノ浦で平家が滅亡したように、日本の外からは玄関、畿内から逃げてくるときは行く手を阻む関門でもあった。
そこに情報が集中する。
吉田松陰が萩に塾を開き、そこで日本の将来を論じることになった歴史の源流を探るとヨーロッパ中世の終焉にぶつかる。
永遠に続くと思われたローマ帝国が滅び、ヨーロッパは長い暗黒時代に突入した。そして長い長い暗黒時代は千年を経て、南方のイタリア、フランスの民族、そして北方のゲルマンやアングロサクソンには溢れるほどの力が蓄えられた。十六世紀に爆発的に始まった華やかなルネッサンスは蓄積された彼らの力が一気に爆発したものである。
人間の精神の解放から始まったルネッサンスは、ルネッサンスはまずレオナルド・ダビンチやミケランジェロ、まもなくマルチン・ルターによる宗教改革、そして、自然科学の世界にも新しい概念が構築された。ヨーロッパ中世の時代には自然科学はアリストテレスの教義の枠を出ることはできず、事実をありのまま観測することすらできなかった。
強固な中世科学の牙城を打ち破り、近代科学の思想的立脚点を作ったのはフランシスコ・ベーコンであった。「自然を観測しそれの結果を応用することによって人類の福祉に貢献することが自然科学の主な目的である」とベーコンは初めてその役割を明快に示した。それでもことによっては精神界を破壊することになる自然科学には依然として警戒感があったが、デカルトが二元論を展開、精神界と物質界の明確な区別をおこないこの問題も解決していった。
こうしてベーコンとデカルトの思想とガリレオ・ガリレイやニュートンの科学の実践によって急激な近代科学の展開が始まる。
十八世紀に入り、多くの分野で科学、工学が目を吹いてきた。その一つが蒸気機関である。
ワットが効率の高い蒸気機関を発明する五十年前、ダドリー城の水をくみ上げるための原始的な蒸気機関がニューコメンによって作られた。効率の悪いこの装置がやがてワットによって素晴らしい「機関」に変身する。
吉田松陰が毛利家の居城の地、萩に生まれた十九世紀の初頭は、ヨーロッパは蒸気機関の発明によって産業革命が急激に進みつつある時であった。
蒸気機関の発明は人類の新たな発展を約束した。それまで人力、家畜の力、そしてせいぜい水車を回す程度の力しか得られなかった人類に、蒸気機関が桁違いの力をもたらしたのである。イギリスの国力は急激に伸び、十九世紀の半ば、つまり蒸気機関が発明され実用化されてから五十年経った時には世界で圧倒的な力を持つようになった。当時の国の力を示す尺度にもなった鉄鋼の生産高でも世界の大半を占め、イギリスの銑鉄生産量は五十年で十倍に伸びた。
世紀の発明家ベッセマーは一八五六年八月十六日、テェルトナムで転炉の発明に関する画期的な演説を行った。
「私は数年来、もっぱら棒鉄と鋼の製造の改良に力を注いできた。繰り返し炉を作り、大量の鉄をこれで処理したが成果が得られず、次々に炉を取り壊すということを続けた。しかし、こうしながら、私がなしえた数多くの実験から、つぎのような全く新しい見解へ導かれた。
燃料なしでも、銑鉄に空気を吹き込むだけで、これまでの方法によるよりもずっと高い熱を発生させることができ、これによって燃料にかける費用が節約されるばかりでなく、燃料が鉄に与える不利な影響も避けられると言うことを知ったのである。」
ベッセマーの着想は、真に独創的なものであり、それが故に技術界に驚嘆、興奮を呼び起こした。そして、同時に、大反撃にあう。……燃料なしに温度を上げると言うことなんか不可能に決まっているではないか……などの常識論である。しかし、新なる発明は、それまでの知識では合理的に説明できないものである。
しかし、事実が次第に明らかになるにつれて、今度は全く反対の立場からの反論がでる。
「薄い壺の鋳造では、日本人は支那人に負けず劣らず優れていた。行商の鋳掛け屋は溶解鋳鉄にフイゴで活発に空気を吹き付けることによって、これを流動かする優れた技法を使用している。
炭素の、そして一部は鉄の酸化によって流動状態に保持する十分な熱が発生する。その方法は近代の製鉄の大改革、ベッセマー法の発明の先行者とみなされることによって、特に興味がある。」(ベック)
ここで言う鋳造法は山下吹きと呼ばれるもので、十六世紀のはじめに兵庫県の山下村で銅屋新左衛門が発明したものである。この方法は銅の生産力を飛躍的に高め、徳川時代には製銅量は増加し、銅はオランダ人の貿易によって日本の主要な輸出品となる。
萩に反射炉ができたのは、丁度ベッセマーの転炉と時を同じくする。萩の反射炉の意味は、ヨーロッパの産業革命とベッセマーの転炉、そしてベッセマーがその着想の参考にしたという「山下吹き」と無関係に考えることはできない。
もともと毛利家が反射炉を建設しようとしたのは欧米列強との戦争のためであった。正確に当時の世界的状況が新聞やテレビによって知ることができたなら、毛利家はベッセマーの転炉を導入するべく努力したに相違なく、山下吹きが改良された「真吹き」を行っていた日本の製銅業界は効率的転炉を開発できたとも考えられるからである。
ともあれ、ベッセマーの転炉の発明により、近代工業の発展は決定的になり、欧米による世界制覇が始まった。蒸気機関とそれに伴う工業の発展はその国の軍事力を高めたばかりでなく、国民の生活の向上にも寄与した。生活状態は改善され、都市は整備され、衛生状態は急激に良くなった。それに伴い、乳児死亡率、伝染病の蔓延などの社会問題も解決していった。
工業の発展は公害、悲惨な労働者や都市のスラム化などが強調されがちであるが、全体として見るならば国民の生活は豊かになったのである。それまで、出生した子供の内の何人かは生まれたときに死に、時には母親が死亡することも希ではなかった。ペストなどの伝染病がはやると家族のうち誰かは死ぬことを覚悟しなければならなかった。
そんな生活と比較すると、産業革命後のヨーロッパは素晴らしい世界であったのである。フランシス・ベーコンが唱えたように工学の力が人類の福祉に貢献しているように見えた。
ヨーロッパに生まれた蒸気の力と鐵の生産方法、それに基づく安定した生活、充実した精神状態は、次第にヨーロッパという狭い地域に押しとどめていることができなくなり、ヨーロッパは外に向かってその力を発揮するようになる。
激しいヨーロッパ列強の嵐がトルコ、インドから東アジア、中国にも吹きすさんできたのは、まさに蒸気の力と鐵の生産力という工学のもたらす結果であった。もともと精神的には攻撃的な狩猟民族が多く、さらにキリスト教の教義がバックボーンにあるのに、さらに長い眠りから醒め、張り切っているときに、蒸気機関と鐵が与えられたのである。
ヨーロッパ人、本人達はわれわれこそは世界を征服するに足る立派な民族だ、と確信していたが、他の民族から見れば、まさに「キチガイに刃物」であった。その結果、アフリカは言うまでもなく、インド、インドネシア、ベトナム、中国、そしてフィリッピンに至るまで総てのアフリカアジアの国が欧米の植民地になった。
そのなかで、なぜ日本だけは植民地にならなかったのであろうか。
つづく