反論にお答えするコーナーの2回目である。私の書籍や整理に対して「学問だけやっている人は間違っている。だから参考にならない。」という反論がある。確かに一理あるので、ここでそれについての反論をしてみたい。
私の基本的スタンスは「自分ができないことを人に強制しない」ということだ。当たり前のように思える。「泥棒は人に「盗むな」と言えるか?」という問いを自分自身に発しているようなものだ。
自分は平均的な日本人で平均的な生活をしている。愛知県春日井市に住み、ごく普通の生活をしている。毎日は大学の学食で学生と食事をするが、時に名古屋の繁華街にでて一杯、引っかける。
歴史が好きなので本を読んだり、自分で執筆したりする。そんな生活である。
そんな私でも世界の人から見ると飛び抜けて大量消費生活をしている。平均的な日本人のような豊かな生活ができる人は世界で5分の1の人であり、その人たちが世界の5分の4の資源を使って、地球を汚している。
私も汚している人の一人だ。300円の学食を食べても、結局、毎月を平均すれば、みんな同じ程度のお金を使っているのだからその分だけ地球を汚している。深く反省しているが、私も日本に住んでいる限り人並みの生活がしたい。自分だけボロをまとう勇気がない。
現在の環境問題・・・地球温暖化やオゾン層の破壊など・・・は私たちが先進国の人が豊かな生活をしているからであり、日本の環境問題・・・廃棄物貯蔵所など・・・は私たち自身の生活が私たち自身の国土を汚している問題である。
日本にいて環境を大切にしようと思うと、環境の原罪を背負っているので困難である。原罪で縛られて動きがとれない。
それでも、私は市民運動の価値を認める。人間は改善したいという心、自然を愛すること、そして隣人と仲良くやっていくことがもっとも大切なことだから、市民運動は評価できる。
ただ、環境と関係のある市民運動の人とお話をして、違和感があるのはその運動に参加している人の月々の出費が、運動をしていない人とほとんど同じ感じがするからである。確かに、服装はややラフであるし、節約はされているように見える。でも、アフリカの人生活とは隔絶して違う。
環境とは自然の中に生きる人間や動物が、いかに「自然からの恵みを分け合うのか?」という問題のように思う。そして、人間と動物の間には若干の格差を認めざるを得ないが、人間同士は「能力が違うから、いくらでも格差が合っても良い」「俺は能力があるのだからお金を多く使っても良い」という考えは賛成しかねる。
「弱肉強食」あるいは「競争社会」と「市民運動」というのは相容れないように私は思う。
大学で講義中に携帯電話が鳴って退席する学生を止めるべきか?という問題も難しい。80人ぐらいのクラスになると、それを認めていては講義にならない。かといって、我が身を振り返ると、学生を止めるのも気が引ける。
会議中に電話が入ってきて、そっと電話をかけてきた相手を見ると急ぎの用事だ。そんな時、「ちょっと失礼」と言って席を外すことがある。でも会議では別の人が発言をしていたり、議論をしている。そんな時に席を外すのは失礼千万である。自分はそれをしているのだから学生も同じはずなのだ。
ところで、市民運動を進めている人は「実践こそすべてで、学問は机上のものだから価値がない」と言われることが多い。
確かに、市民運動は「運動」だが、学問は「資料」を見て整理をする。どちらが正しいかとかどちらが優れていると比較する必要はない。だいたい、優れているとか劣るとか言う概念自体が好きではない。
市民運動には市民運動の価値があり、学問には学問の価値がある。現場を見るにはそれなりの意味があり、数値を解析するのも大切である。それぞれの価値を認めて始めて社会が成立する。
そしてもしお互いに疑問があれば、それを話し合い、相手が考えていることを知ることだ。
「同意できない」ということと「相手の考えていることを理解する」というのは違う。常に理解しなければならないだろう。その意味では私はまだ「環境運動家はなぜ、自分が平均的な日本人と同じ消費をしているのに、世界に向かって環境を説くことができるのか?」という疑問を解消することができないでいる。
是非、今度、聞いてみたいと思う。
つづく