愛車
車の性能というと今も昔も「馬力、速度、乗り心地、ハンドルさばき、室内の大きさ・・・」などである。かつてトヨタのフラッグシップ、クラウンの馬力が28馬力で観音開きのドアーを備えていた頃があった。馬力は正確には覚えていないが、たしかその程度だったと思う。
その頃、山道に行くと後部にエンジンを積んでいたルノーの小型車がよくオーバーヒートして止まっていた。山道を登る力がエンジンに無かったのである。
そして日本車ではスバル360という名車があり、とても小さいのに車内に入ると意外にもゆったりとしていて、後ろにエンジンがあるのにオーバーヒートもせずによく走った。気の合う仲間がこの車を持っていて、少なくとも外見的には狭い車内に4人乗ってドライブに行ったものである。
だから、「力強い」「広い」というのは車好きの日本人の夢だった。
メーカーもそれに応じてものすごい馬力の車を生産し、車の形容詞に「暴力的」という言葉が使われ、それが賛辞になったものである。
今でも「ホイールベースが一杯に取ってあり・・・」、「信じられないことだがこの車は450馬力・・・」などという文字がカー雑誌に踊っている。でも、いつまでも「馬力と室内」なのだろうか?
車というものは人の魂を揺さぶる。どの車を買おうかと迷っている時、夢は際限なく広がる。道路事情が悪いことも、あまり飛ばすと捕まることも、そして自分には横に座ってくれる彼女もいないこともよくわかっている。それでも車というものは夢のあるものだ。
そしてその夢は「馬力」でも「室内」でもない。
アクセルを踏めば踏むだけスピードがでるのなら面白くはない。そんな車に乗ったらスピード違反を我慢するだけで気分が悪い。滑るように走ってもらっては困る。ドライブの楽しさの一つは「外にいる」ということだ。レストランで料理を食べるより、キャンプが良い・・・それが車だと私は思う。
車を買い換えるときに参考になる第一は「手を焼かせるが何とか走ってくれる」ということだ。決定的な故障でなければ少し故障した方がよい。それも、もし自分で簡単な修理ができれば最高だ。
ボンネットを開けてキャブレターやフィルター、そしてプラグぐらいはさわりたい。エンジンを磨いてみたいし油まみれの手になっても見たい。
インテーク・マニホールドの吸気状態を運転席の横のパネルで見てみたいとも思う。自分の車の呼吸を知り、排気ガスの組成や微粒子が環境を汚していないかという監視もしたい。
サスペンションは少し固く、床には小さな穴が開いていて地面が見え、時には砂埃や水滴が飛んできた方がよい。運転は道路と一体となり、まるで路上を自分が走っているような錯覚が欲しいのである。
単に、パワーステアリングのハンドルを握り、自動変速、そして外界と隔絶した空間を移動しても何の意味もない。それならバスでも電車でもあるし、その方がずっとましである。まるで廃人が乗る車だ。人間には縁がない。
ある時、車を買い換える必要が生じた。私がある開発途上国で生産されている車を買おうとしたら、家族の反対にあった。
「あの車、評判が悪いわよ」
私が密かに期待していたのはそのことだったのだ。その発展途上国がどんな車を作っているのかということにまず興味があった。それにカー雑誌を読むと私が買おうとしていた車のことをひどく悪く書いてある。トランク・ルームを空けると突起物があって危ないとか言うたぐいである。
でも、だから買うのである。発展途上だから不都合もあるだろうし、突起があれば削る楽しみもある。なにから何まで整っていたらわたしは廃人だ。
ただ移動する手段なら車は買わない。自分の夢、自分の興味を満足させてくれなければ魅力はない。ワンボックスといえばすべてワンボックス。「心の癒し」といえばすぐそんなスタイルの車ばかりになる。
今や、ソアラもS2000もいない。ネットでいくら探してもただ実用的で夢のない車だけが並んでいる。そして「馬力があり、アクセルに鋭く反応し、振動が少なく、ハンドルが軽々と切れる・・・」というのが良い車らしい。
私はすっかり買う気を無くすのである。
もし日本人が「自分の好きな車を買い、その車を愛用し、そして楽しくドライブをしたら」、その車から排出される二酸化炭素は星のように輝くだろう。もし二酸化炭素を出すならそういう出し方をしたい。
つづく
【私の愛用品の五原則】
一、 持っているものの数がもともと少ないこと
二、 長く使えること
三、 手をやかせること
四、 故障しても悪戦苦闘すれば自分で修理できること
五、 磨くと光ること、または磨き甲斐があること