このコーナーは拙著に対するご批判にお答えするコーナーである。いつの世でも、自由な意見、忌憚ない反論ほど社会を健全にするものはない。そして反論には必要に応じてお答えするのもルールだろう。

 

 今回は「正しさ」についてお答えしたい。「正しさとはなにか?」ということはこのホームページの「デザインの為の環境論」「工学倫理講義」などにもその基礎を書いたが、ここでは日本の環境運動を中心にしてお答えする。

 

 人はそれぞれ独立している。家族がいて、友人や恩人がいても、人の考えは一人一人違う。ある人はイスラム教を信じているし、隣の人はユダヤ教だったりするが、どちらの人が「間違っている」ということはない。あの人はイスラム教、この人はユダヤ教信者というだけだ。両方とも尊敬しなければならない。

 

 これと同じように、環境問題でも「なにが環境に大切か」ということは人それぞれに違う。ある人は「人間が存在すること自体が問題だ」と考え、ある人は「いや、環境に優しい生活はある」と言い、そしてまた別の人は「人生は短い。そんなことより俺は楽しみたい」と言うだろう。それぞれ正しい。

 

 でも一つ決まりがあるような気がする。それは「他人への強制」だ。自分が正しいと思うことを他人に強制する時、「自分が正しいと考えるから他人に強制している」のかどうか、よく反省してみなければならない。

 

 特に環境問題では「体が強く、健康で、声の大きい人」が自分だけのことを考えて、他人を強制することが多い。その典型的なものがDDTで、先進国の人が害虫を駆除し終わったのでDDTが要らなくなり、自分の健康を害するからと全面禁止した。そのために発展途上国の人が私の推計で8000万人も死んだ。可哀想だ。

 

 最近では、紙のリサイクルだ。紙を大切に使うことは異論がないが、それまで家族でほそぼそとちり紙交換屋さんをしていた人たちを全部、追い出した。昔からリサイクルをしている模範的なちり紙交換屋さんを追放しなくても良いと思うが、環境問題とはそういう面を持っている。

 

 次の漫画はアメリカの有名な漫画だが、自分ではあふれるほどのエネルギーを使い、二酸化炭素を出しているのに、開発途上国の農民が木を切ろうとしているところに来て「その木を切ってはダメだということがわからないのか!」と叱る。

 

 アメリカ人.jpg

 

 環境で「正しさ」とは「優しさ」ということだ(と私は思う)。足が痛い老人にはゴミを出しに行くのも辛いだろうし、少しは体に悪くても簡単にお風呂のカビも取らなければならない。若い人ほど活動はできないが、それでも人間としてはもちろん同じ価値を持っているのだ。(参考 このホームページの「老婆の時間」)

 

 自分がやろうとしていること、自分が正しいと信じて発言していることが、「強い者の味方」になっていないか、「弱い人が打撃を受けること」ではないか、もう一度、考えてもらいたいと私は思う。

 

つづく