― 「無実」を叫んでも無駄な社会 ―

 

 「自分はやっていない!」
そう叫んでも声はどこにも届かない。厚い壁に跳ね返されて返ってくる。・・・ああ、ダメだと絶望感が全身を包む。人間とは哀しいものだ。

 社会の仕組みを知るようになったのは中学生の頃からだろうか。学校では社会科を学び、政治や裁判制度などを勉強した。時々新聞も見るようになり、それまでは自分の身の周りしか見えていなかったのに、次第に、どうも日本という国は「三権分立」「民主主義」「法治国家」らしいとわかってくる。

 子供の頃は人間社会というのがよくわからない。自分は親に扶養されているし、自分が食べるものがどこから降ってくるのか、ランドセルはなぜ玄関に用意されているのか、さっぱりわからないで生きている。

「いってらっしゃい!」
と言われて駆け出す。良い時代だった。

 でも、大人になり経験を積み、世の辛酸を舐め、さらに人に裏切られて泣き、そうして人生を送ってきた。でも最近まで「日本は法治国家」と信じて疑わなかった。どんなに不当なことが起こっても自分は法律に違反していないのだから罰せられることは無い、それが最後の砦、自分の仕事を支える安心のもとだった。

 この世にはいろいろなことがある。でも最後に「正しい自分」を支えてくれる人がいる、と信じられること、それはかけがえのない支えである。その人は母親であり、裁判官であった。

 でも、それは幻想に過ぎなかった。

 仕事で裁判に拘わるようになり、少し勉強した。ある時、刑事裁判では有罪率が99.9%であると聞いて飛び上がるほどビックリした。本当に99.9%かどうかは公表されていないのでわからないが、そうらしい。

 そして、「そんなことは常識だ」と言われた。裁判官と検察は一緒だから、検察が起訴した事件を無罪にすると裁判官は出世できないとも言われる。何で今までこんな単純なことを知らなかったのかとも思った。

 有罪率が99.9%ということは、逮捕され、検察に起訴されたら、即、有罪ということである。危険性の確率を知らない人は「99.9%は100%ではない」と言うかも知れないが、確率とはそういうものではない。

 確率が99.9%の場合、その危険性は「危険の度合い」で決まる。あることを行えば99.9%死ぬという場合、人は絶対にそれをやらない。その代わり99.9%は外れるという宝くじは1000円で買う。

 つまり確率に安全率や人生観をかけて行動するのが人間である。「裁判で有罪になる」というのは「死ぬ」より少しましであるが、ややそれに近い。安全率を3として99.9999999%有罪ということになる。このぐらいになると100%と言っても科学的に間違いではない。

 なぜ、法治国家なのにこんな事になるのだろう?

 「法治国家」というのは「検察」が「犯罪を確定する」のではない。検察は単に有罪を主張するだけだ。そして、弁護人は無罪を主張し、裁判官が決めるはずである。それなら有罪率は50%、つまり半々でも良い。100%ということは無いはずである。

 有罪率が100%なら裁判制度は要らない。

 でも、時々、無罪判決がテレビや新聞で報道される。それはそうだろう。無罪判決は「希な判決」だからである。無罪判決が報道されるので、うっかり「無罪があり得る」と錯覚してしまうが、無罪は無い。起訴されたら終わりである。中学校で習った裁判制度はウソだったのだ!!

 でも、裁判所には裁判官がいるのに、起訴されたら全部有罪になるという理由は複雑である。人間社会の縮図をそこに見ることができる。

 ある事件が起こるということは犯人が必ずいる。社会は固唾を飲んで警察が犯人を捕まえるのを今か今かと見守っている。メディアが騒げばさらにそうなる。

 警察はどうしても犯人を捕まえなければならない。少しぐらい疑問があっても逮捕せざるを得ないのだ。警察が逮捕したら検察が取り調べ、起訴せざるを得ない。なぜなら、「犯人らしき人」を裁判にかけないわけにはいかないからだ。

 かくして検事は裁判所で起訴状を読み上げる。優秀な大学を出て司法試験に受かり、経験を積んだ検事だから起訴の論理は通っているし、必要な証拠も揃える。鑑定の必要があれば無限に資金を持っている研究所に委託し、証言となれば東大の先生が出てくる。

 受けて立つ被告には太刀打ちができない。弁護士は検事と同列に優秀だが組織力が無い。日本の裁判制度は最初から不平等なのである。

 さらに、裁判官は刑事事件で無罪判決を出すと出世が止まると言われている。これはたぶん、巷の噂だけだろう。というのはほとんど無罪判決が無いのだから、裁判官が無罪判決を出したらそれで出世が終わりということは実証されていないはずだ。この噂はおそらく「無罪判決が無いところから見ると、裁判官の心の中はおそらく・・・」と勘ぐったものに相違ない。

 この酷い状態は「検察と裁判官が悪い」のかというとそうでもない。実は、「起訴されたら有罪」という事実にはもっともっと深い「人間の業」があるように思われる。

 仮に検察が起訴して裁判になった事件のうち、3回に1回が無罪判決だったとしよう。起訴された人は長い間、裁判で苦しみ、一方で世間は「あの人がやった」と思うからまともな人生を過ごすことはできない。

 だから、長い裁判で無罪になったとすると、検察の責任が問われる。つまり、犯罪が起こると、
「逮捕しないと警察が非難される」
「起訴しないと検察が非難される」
「無罪なら警察と検察がさらに非難される」
からである。

 だから、現代の裁判制度には欠点があるため、我々、平民は裁判に正義を求めるのではなく、普段の生活を真面目に送り、人に悪く思われないように妥協し、人の噂にビクビクして過ごすしか方法が無いのである。

 私を守ってくれる人はいないから。

おわり