― 自然科学の著作権 ―

 他人の著作物を盗んだということで時々、有名な人がテレビで糾弾される。そんなこともあって若手の学者や学生は著作権の違反にとても敏感である。でも、自然科学に著作権というのがあるのだろうか?

 かつて地動説を唱え宗教裁判にかけられたガリレオは、
「私は神を冒涜しているのでも、聖書に反しているのでもない。この世は神がお作りになったのだから自然を観察することは第二の聖書を読むことと同じだ。」
と言う意味のことを主張した。

 私も同感である。自然は神がお作りになったのか宇宙の誕生と共に出来たのかは不明だが、ともかく人間が作った物ではない。ということは、自然は我々が知るずっと以前から存在するのである。

 自然科学は自然を解き明かしたり、自然のものを利用して工作物を作ったりする学問である。だから我々はいつも自然現象を観測し測定する。自然現象とは、時には昆虫であったり、鉱物であったりもするし、いわゆる「人工物」の時もある。

 「人工物」は自然ではないとトンチンカンなことを言う人もいるが、私はおよそ自然界にないものを人間が作った例を知らない。我々、人間はそれほど偉い存在ではなく、自然界の物を少し加工するぐらいが関の山である。

 例えば自動車とかLSIのようなものは自然界にはない。でもそこに使われている鉄やプラスチック、シリコンはもともと自然界にあった。そして自動車の駆動力やシリコンの電子の流れも自然現象であって、人間はそれを組み立てたり、工夫したりしたに過ぎない。

 工業的には自動車やLSIの技術は守られるべきであり、それには工業所有権がある。でも、本当の「創造物」ではないから著作権に及ぶのは少し行き過ぎだろう。

 だから、自然科学で観測した物は我々がこの世に生まれるずっと前からすでに自然界にあるものであり、「創造物」ではない。創造物でなければ著作権は生まれない。トルストイの小説はトルストイがこの世に生まれたから存在するが、我々の測定値は我々が居なくても存在する。

 だから「自然科学に著作権は無い」というとまた反論が来る。
「確かにデータそのものは著作権が無いかも知れないが、グラフの書き方などはその人に特有だ」
と言う。この理屈も怪しい。

 トルストイの小説をある活字を使って本にした出版社が、「我が社が素晴らしい活字を使ってトルストイの小説を読みやすくしたのだから、その本からトルストイの文章を引用してはダメだ」などと言ったら困る。トルストイの小説の価値は活字の書体とは比較にならない。そんなことで人類の宝の利用を制限することは望ましくない。

 権利というのは社会に対する貢献度と、その権利を認めることによる社会の損害の大小で決まる。グラフの書き方ぐらいで、自然の貴重なデータが使えなくなるのはバランスに失する。

 自然は人間に与えられた共通の財産の一つである。だから自然現象は人工物も含めて著作権の対象にはならないというのが私の考えである。私は自らが明らかにした自然現象や人工物について一度も、その権利を主張したことはない。私ができることはせいぜい自然のまねごとだから・・・

おわり