― 納得性 ―

 このごろ、「納得性」という言葉がよく使われる。医師の診療で言えば「インフォームド・コンセント」だろう。つまり、昔なら診療は偉いお医者さんに言われるがままに行われていたが、今では患者を「患者様」と呼び、その納得を得ることが大切になってきたからだ。

 学校でもそうで、何事においても「生徒の納得性」が必要になって来つつある。たとえば、ある生徒を表彰しようとする時、先生が集まって「あの学生は模範的で、学業も優れている。あの学生を表彰しよう」で済んだ。古き良き時代なのか、それとも秘密の多い時代だったのかはわからない。

 でも、今では、生徒が納得しない。そこで「生徒全員の前で何かを発表させて、それで決めようではないか。その方が納得性がある」という意見が出される。

 一見して、もっともらしいこの考えは「納得」、または「納得性」ということについて少し誤解していると思われる。

 「納得する」というのは自分で「それが正しい」と判断することである。

 自分が「正しい」と思うことは、同時に人も「正しい」と思うだろうか?確かに、年齢や育った時の周囲の環境、教育、そして男性とか女性などの性別やその他の性質の差などがすべて同じなら、自分が「正しい」と思ったことは、同時に他人も「正しい」と思うだろう。

 でも、生まれや育ち、性質も違う人が「正しい」と思うことが一致することはあり得ない。親子げんかでもオヤジはオヤジで自分が正しいと思うことで叱り、息子は息子でオヤジは間違っていて自分が正しいと信じている。

 時にはただただ、反抗したいだけでオヤジがああ言えば息子はこう言うということもあるが、だいたいは本当に「正しい」と思うこと自体が違う。でも、多くの人は「自分はそれが正しいと思う」とは考えておらず、「正しいことがある」と思っている。

 表彰する生徒を決めるのに、体育館などに生徒を集めて表彰の対象となる生徒に発表をさせ、それを先生が採点しても先生方の採点と生徒の判断が違うことがある。さらに生徒の間でも違うだろう。なぜなら、その人その人で何を判断するかが違うからだ。

 それでは納得性を得ることが難しいかと言えばそうではない。「納得性」というのは「判断そのもの」に求めるものではなく、「判断する手続」に納得性があれば良いからだ。例えば、生徒の表彰の場合、「表彰の基準は、成績を5割、人物を5割として、人物は面接点で決める」という基準をしっかりしておく。

 その後は、生徒が先生を尊敬し、信頼しているかにかかっているが、もともと教育現場で生徒や学生が先生を尊敬できなければ教育自体に意味がない。先生は日常的に生徒の答案を見て採点している。先生は、採点をいい加減につけることも、調整することもできる。でも、決してそういうことはしない。先生は胸に手を当てて可愛い生徒の成長のために、時には厳しく、時には少し甘く採点する。

 それはその先生の誠意と情熱にしか期待できない。法律や規則で縛ることができない人間の行為である。

 医師も同じだ。患者は素人だから、診察を少しいい加減にしようと思ったら簡単だが、それをするかどうかは医師法やインフォームド・コンセントの問題ではなく、医師の心の問題であり、長い歴史の中で患者と医師の間に生まれ、育ってくる信頼感の問題である。

 私は「納得性がない」という議論を聞くにつれ、ある技術者がふと漏らした次の言葉を思い出す。その人はきわめて優れた技術者だったが、その人の専門からほんの少し違う問題について、
「結局、私には判らない。その道の専門の人を信じることができるかどうかだな。この問題は・・・」

 おわり