― 優れている ―
「優れた学生の授業料を免除する」という規定を定めることになり、その「選考基準」を決める委員会に出席した。これまで何回も「その年度の卒業生の主席を決める」、「優秀な学生を表彰する」という規則を作ったり、選考に携わってきたが、その度ごとに迷いがあった。
一体、学校から見て優れた学生や生徒というのはどういう学生だろうか?教育基本法には教育の目的としてこうある。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
つまり、私たち教師が学生や生徒を教育する目的は「学業」ではなく、「人格」であり、仮に学業を磨くことが人格を向上させるとしても、教育の成果を判断する第一は、やはり「人格」であることは間違いない。
でも、現実は違う。その委員会でも、授業料を免除する学生は、
「成績順に選ぶ」
という意見に対して誰も疑いを持たない。もともと、学校には成績以外に参考になるデータはないと、はじめから決めているのだ。
それはみんなが学校は「学問を教えるところ、勉強するところ、自分の将来の職業に必要な知識をつけるところ」で、人間として立派になろうと思って学校に行く人は少ないと思っているからである。
そこで、次のように発言してみた。
・・・・・
第一に、「あなたが自分を犠牲にして他人のためにした事を3つ挙げよ」、
第二に、「あなたは社会に出て、社会に対してどういう恩返しをしようと思っているのか」
などを成績より先に問うてはどうか?
もちろん、委員会の人の反応は鈍かった。確かに必要な事かも知れない。しかし、成績順なら数値で示すことができるが、そう言う抽象的な尺度では数値が出せないと言われ、さらにもともと奨学金などを出す時の「優れている」という基準には「人格」などは入っていないという説もあった。
明治の昔、日本が早く国力を溜め、戦力を高め、昇っていく時には、少しぐらい人格が低くてもその人が引っ張っていくから全体は豊かになった。役得やインサイダー取引が許されていたのである。
でも、永久にそれで良いのだろうか?学校は卒業できれば学力的には満足であり、その上で、もし授業料を免除する学生や生徒を選ぶならば、それは「模範となる人」であり、「成績優秀者」では無いのではないか?
少なくとも私の講義では表面上は物理を教えているが、実はそれを通じて社会に奉仕する心を持つ人を育てることを目的としている。
おわり