学生は座らない。私と3人の学生が連れ立って電車に乗る。私は座席が空いていたらそこに座り、時にはパソコンまで取り出して仕事を始める。しかし、学生は座らない。彼らはドアの少し横に立っていてなにやら話し出す。学生にとっては多少、気が引けながら座席に座るより立っておしゃべりをしている方がなんぼか気楽で楽しいのだ。

 おばさんは座る。人を押しのけても座る。人を押しのけて座った時にはすぐ目を閉じて頭を下げて眠る。「私は疲れているのだ。だから少しでも眠りたい」と周囲に行動で言い訳をする。

 でも、そのおばさんも座らない時がある。それは「お仲間」とご一緒の時である。「あら、奥さん、どうぞ、座ってください」「いいえ、あなたこそ、座ってっ!」という具合になる。そして30秒ほどの争いの後、やっと座る人が決まる。「悪いわね、その荷物、わたし持つわよ」となり、ベトベトしてくる。

 おばさんは座りたいのだろうか、それとも座りたくないのだろうか?疲れているのだろうか、それとも本当は元気なのだろうか?

 サラリーマンは座る。朝、早く家をでる。時には妻に言われてゴミを出し、急ぎ足で駅までの15分を歩いてくる。職場に行くまでには座ることもできない電車を3本も乗り継がなければならない。昨日も仕事はきつかったし、今日も忙しいだろう。サラリーマンは万年、疲れているのだ。

 でも、そのサラリーマンも座らない。「どうぞ、座ってください。私は平気ですから」といって自分の目の前の席を譲る。どうして?と思って見上げると横には50歳ぐらいだろうか、そのサラリーマンの上司とおぼしき人が立っている。そりゃ、そうだろう。自分の前の席が空いても上司と一緒の外出だ。上司に席を譲らなければならない。

 不思議なことがある。それは、席を上司に譲ると言っている時のサラリーマンの顔つきや姿勢だ。あれほど疲れ切り、激務に耐えているのに、その様子は微塵もないのだ。さっきまでのゆがんだ顔、曲がった背中はどうしたのだろうか?彼は精悍な顔をして、背筋はピンと立っている。瞬間的に凛々しい青年の姿に変わった。

 彼が「疲れて」いると感じるのは「疲れて」いると思っているから「疲れて」いるのであり、本当は「疲れて」いない。睡眠不足と一緒だ。昼の活動でたまった血中の老廃物は4時間半の睡眠で解消する。どんなに精密に血液成分を測定しても、もう血中には老廃物は蓄積していない。つまりもし「睡眠を取る」ということが「疲れを取る」「血中にたまった老廃物をかたづける」という意味なら、4時間半眠れば爽やかである。

 でも睡眠不足をすると一日中、ぼーっとしている。それは体が疲れているのではなく「昨夜は睡眠不足だった」という意識が疲れさせる。疲れは肉体的なものではなく、幻想である。

 若いお母さんも座る。家庭を持ち、子供を育て、そして働く。一人三役をこなしているのだから疲れもたまるし精神的にもクタクタである。まだ三十を少し過ぎたばかりなのに電車に乗ると、つい空いた座席を目で追う。

 朝、私はとある私鉄に乗っていた。2, 3の駅を過ぎた頃だろうか、電車の中は比較的空いていて私の斜め後ろの座席が空いていた。立っていた人もいたけれど、まあそれほど座りたくない雰囲気が漂っていて、誰もその席には座らなかった。

 ドアが開いて数人が乗ってきたが、その中に丸い紺の帽子をかぶった可愛い小学校2年生ぐらいの女児を連れたお母さんが乗ってきた。彼女は素早く空いている座席を探し、そそくさとその前に来ると子供の背中を押して座らせた。女児はちょこんと座席に座ると、キョロキョロと辺りを見回していた。

 お母さんはすぐ大きな紙袋を開けてその中を見たり、何かを取り出したり忙しくしていた。それを見ながら女児は相変わらず楽しそうに電車の中を見回している。お母さんにはやることがいっぱいある。まだ7時20分なのだからさぞかし朝も早かっただろう。女児の朝ご飯も、そしてひょっとしたらお弁当も作り、子供の持って行くものを揃え、自分もご飯をかきこんでお化粧もしてきただろう。

 でもお母さんは元気そうだった。疲れているのだろうが疲れてはいなかった。なぜだろうか?

 人間は疲れない。疲れるのは心であって体は疲れない。体が疲れるように感じるのは何もやらなくても良いからである。つまり、本質的には人間の体は疲れないのだが、「意味が無いことはやりたくない」という体の意志が「疲れた感じ」となるだけである。

 お母さんは女児に愛情がある。子供のためなら何でもやりたい、やりがいがある。だから疲れない。体は疲れているけれど、それを感じないのではない。本当に子供のことをやっている時には疲れないのである。というより、むしろ疲れがとれると言っても良い。

 私たちが日常的に錯覚していることと違うので、もう一度説明しよう。

 何かをやり始めると疲れる。でも同じ事をしても疲れは同じではない。やりたくないことをするとすぐ疲れるが、やりたいことならいよいよ体力的に疲れてくる直前まで疲れない。この原因は「疲れ」というのは「疲れている」と言うことではなく、体の方が「やりたくないものはやらない方が良いですよ」というシグナルだからである。

 まずいものは食べない方が良い。臭いものは警戒した方が良い。それは人間の「味覚」というものが危ない食べ物から自分を守るためにあるからである。それと同じように「疲労感」というのは「やりたくないものには体を使いたくない」というシグナルなのである。

 お母さんはどんなに朝早く起きても、お弁当を作っても、自分が座らなくても疲れない。それは目の前の子供が楽しそうにキョロキョロしているからである。そして人間というものは自分のためにやることは疲れる。人のためなら疲れない。

おわり