岩崎恭子と女子マラソン

 2004年アテネ・オリンピックの女子マラソン代表選考の結果が次の様に報じられた。

 「日本陸上競技連盟は15日、東京・渋谷の岸記念体育会館で理事会、評議員会を開き、アテネ五輪のマラソン代表男女各3人を決定、注目された女子のシドニー五輪金メダリストで日本最高記録保持者の高橋尚子(31)=スカイネットアジア航空=は選ばれず、女子史上初の五輪連覇の夢を断たれた。

 女子は昨年8月の世界選手権で2位に入って既に内定していた野口みずき(25)=グローバリー=に加え、14日の名古屋国際女子を選考レース中最高の2時間23分57秒で制した土佐礼子(27)=三井住友海上=と1月の大阪国際女子で優勝した坂本直子(23)=天満屋=が選ばれた。(Yahoo Newsより。2004年3月15日(月) 17時2分)」

 スポーツをやる以上、他人に勝つことが目的であるから、その頂点ともいうべきオリンピックに出るのが目的であるのは理解できる。候補となった女子4選手は、前日の夜は眠れないか、胃が痛かっただろう。彼女たちにとってオリンピックに出ることができるかどうかは、高橋を除いて人生に大きな差がつくだろうから。

 でも本当だろうか?スポーツというものはスポーツ自身に目的があるのではなく、オリンピックにでるということ、よくよく考えればスポーツ自身とは言えないことが目標になりうるのだろうか?そうすると、彼女たちは何を思って走っているのだろう?

 走るのが目的か、オリンピックが目的なのか?数行上には、「スポールをやる以上、他人に勝つことが目的」と書いたが、スポーツは他人に勝つのが目的なのか、スポーツそれ自体が目的にはならないのだろうか?

 「私自身、バルセロナでは訳がわからないまま出場して金メダルが取れました。(アトランタへは)前回の優勝者なのだから、簡単に出場できるだろうと一般的には思われて、行けたら「天国」、行けなかったら「地獄」とまで思い悩んだ経験があり、出場が決まった時には本当にホッとしました。「今回はメダルを何個ぐらい取れるか」と良く聞かれますが、メダルに限らず、選手はそれぞれ自分の目標を抱いて本番に臨むものです。結果がすべてではありません。自分の目標をクリアし、自分の心が満たされるようなレースをしてほしいですね。(岩崎恭子談)」

 ある時に受験に悩んでいる高校生にあった。彼は両親や周りの期待があり、自分の成績が少しずつ下がっているような錯覚にとらわれていた。私は彼にこう言った。
「この岩崎さんの文章を読んだら良い。確かに、大学受験に勝つことは大切だろうが、それ以上に大切なのは「自分の心が満たされるような」受験をすることだ。」

 そして次のように付け加えた。
「人生で起こることには2種類のことがある。一つは自分で努力し、自分で決められること。そしてもう一つが自分で努力して他人が決めるものだ。他人が決めるものは、「人事を尽くして天命を待つ」ことしかない。でも、人間は、他人が決めるとわかっているものでも、その結果が心配になるものだ。」

 そして、スポーツや勉学は本来、結果に目的をおくものではないと私は思う。スポーツはスポーツ自身で喜びを感じなければ止めた方が良い。オリンピックが目的になるような選手はスポーツマンではない。

 学問でも同じである。大学を出るため、教授になるために学問をするなら、止めた方が良い。学問、それ自体に興味があり、その中に自らの目的を感じることが出来れば、その人の人生の時間は有意義になる。もし、勉強することが目的ではなければ、高等学校の3年間は灰色で、受験で受かったときだけ空が晴れている。そして翌日から大学生活は灰色だろう。もし大学生活をアルバイトで過ごすなら、それは「大学生活」ではない。

 「ためにする人生」は空しい。多くの時間が張り子になってしまう。