直実と敦盛
 

 戦いというものはむごいものである。でも、人間は戦いの中にも人間らしさや美しさを求めた。それは戦いが避けられないものだからこそ、生まれた美しさであった。そして戦いを描写した文学の中では、トロイの戦争をえがいたホメロスの叙事詩「イリアス」、中国の魏呉蜀の争いで有名な「三国志」、そして日本では源平の合戦の平家物語などが傑作と呼ばれるものだろう。

 平家物語、直実と敦盛の一節を、少し現代風に書き直してみた。
 熊谷次郎直実: 「平家の公達、助け舟に乗らんと逃げるのか!大将軍なら後ろを見せずに我と戦え。」
と、砂浜まで馬を進めると、練貫に鶴ぬうたる直垂に、萌黄の鎧着て、鍬形うつたる兜の緒しめ、黄金づくりの太刀をはき、切斑の矢、滋藤の弓持つて、連餞葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗ったる武者一騎、引き返してむんずと組み合う。
 組み討ち数刻、直実がその武将を組み伏せ、首をかかんと兜をおしのけて見ければ、年十六、七ほどで、うす化粧し、年の頃はわが子の小次郎がほど、容顔まことに美麗なりければ、首を掻くことができず、
直実 :「そもそも、いかなる人ぞ?」
若武者:「そなたは?」
直実 :「名乗るほどでもないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実じゃ」
若武者:「そうか、それなら討て。名乗る必要はない。私の首は誰に聞いても分かるわい。討てっ!」
直実、若武者の顔を見て心乱るる。
・ ・・小次郎が薄手負うたるをだに、儂は辛い。この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きんずらん・・・
 その時、後ろより土肥、梶原勢が50騎ほど押し寄せて来る。・・・もはやこれまで・・・
直実 :「助けせんとは存じども、見方の軍兵、雲霞のごとく。人手にかけせんより、同じくは、直実 が手にかけせて、後の御孝養をこそつかまつりめ。」
若武者:「ただとくとく首をとれ。」
熊谷、刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞ掻く。
直実 :「弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうきめを ばみるべき。情けも討ちたてまつるものかな。」
袖を顔におしあてて、さめざめとぞ泣き。
 熊谷直実はこの戦いのあと出家して諸国を回りながら敦盛を供養したとされる。戦国武士の仁であり美であろう。古今東西の戦いの描写でもっとも美しいものの一つで、人間の行動と心の矛盾、そして矛盾を抱えながらも消えることのない美しい魂を描いている。
 
 平家物語は琵琶法師が語り、日本の文化の一つとして残ったが、現代の高校でその語りを聞いたある高校生の感想がインターネットに載っていた。
 「今日聞いた『那須与一』や『敦盛』は少しは知っていたのですが、音楽しかも琵琶で表現するとあんな神秘的で日本独特の響きになるとは考えられませんでした。響きの中にも風やその場の情景を表すための表現や、山場を表すかのような表現などたくさんの響きがあるのだなと思いました。
『敦盛』は源平合戦ということもあってか荒々しく感じられ、後半の敦盛の死の部分は熊谷の悲しみを表すような静かな曲でした。これから国語で勉強する時は、この熊谷の悲しみを更に詳しく知りたいなと思います。そして、敦盛が死に際に放った言葉を深く心に刻み込んで勉学に励んでいきたいと思います。」
 人類が歴史を刻み始めて以来、多くの戦いが大地を血で染めてきた。ある時は侵略の戦いであり、ある時は正義の剣をとった戦いであった。戦争がいかに無意味であり悲惨であっても、それは否応なしの現実として人々の上にのしかかっていた。
 人間そのものや人間社会が持つ矛盾は深い。だからその解消には戦いが必要である・・・誰もがそう思っている。だから「戦争反対」には誰も異議をはさまないのに、戦争に強い人は尊敬される。
マケドニアのアレキサンダー大王、ローマ帝国のシーザー、そしてフランス帝国のナポレオン・・・みんな戦争で活躍し、英雄となった。
 人が人を殺すこと、それはやむを得ない事なのだろうか?フセイン大統領が独裁政治を続ければ、それを止めさせるには戦争しかないのだろうか?世界中の人がそう思っている。だから戦争は続き、軍隊は消滅しない。
 どうしようもないこと、仕方のないことと諦めていること、「戦争は避けられない」ということを、少し視点を変えて考えてみたい。
 「最も強いオスが望みのメスと結婚する」
と言うのがオオカミ社会のルールである。このルールはオオカミばかりではなく、ほとんどの生物で認められるものだが、オオカミではこのルールを適用しようとすると、避けられない難しい問題が起こる。
 もともと戦闘力の弱い動物の場合にはオス同士が戦っても、相手を殺すまでには行かないが、オオカミは鋭い牙と俊敏な運動神経を持っているので、本気で戦うと相手、つまり同じオオカミである「仲間」を殺すことになる。
 といって、本気で戦わなければ「どのオスが本当に強いか?」という判定ができない。基本的な矛盾であり、一見、この矛盾を解決する方法はないように思う。戦わなければ優劣は決まらないし、戦えば相手を殺す。そのことは人間社会の戦争と同じである。
・・・・この矛盾を避けて、戦争をしないですむ方法はあるのか?人間でも考えつかないのだから、オオカミに考えつくはずはない。人間は万物の霊長であり、あるいは神に似て作られた創造物である。オオカミは牙を持ち、人間は剣を手にする。
 だからオオカミもメスを求めて戦うときには相手を殺すに違いない。相手がいかに年端のいかない若いオオカミだとしても、オオカミにも直実や敦盛がいたとしても、やはり戦いだから殺すのは仕方がないだろう。それが「命」というものの宿命だから。
 もともと生物は戦うようにできている。それが「進化」であり「淘汰」であるから、平和主義こそ人間が頭で作り出したもので「人間らしい」行為ではない。むしろ戦争こそが「人間らしい」。DNAを解読すればわかる。そこには「戦え」と書いてあるのだ・・・そう言う考えもあり、理屈は通っており、かなり有力だ。
 実は、人間というもの、特に人間の頭で考える理屈というのは、おかしなものなのである。戦争でも例外ではない。オオカミの戦いには「戦いの仁義」があり、ルールが定められている。
オオカミのルール:
「戦いは仕方がないが、これ以上戦っても勝ち目が無いと思ったら、負けたと思った方が急所の首筋を無防備のままにさらけ出す。それで戦いは終わりで勝った方は負けたオオカミの命は取らない。」
このルールは猛毒を持つコブラも同じで、仲間同士で激しい戦いをするが、決して毒を使わない。たとえ戦いの途中で死に瀕し、もしここで毒を使えば、という場面でも決して使わない。それが「ルール」だからであり、動物はルールを破ることはない。
 人間もオオカミも序列を決めなければならない。平家と源氏の間には序列が必要だ。でも、相手を殺すまでに戦わなくても源平合戦を終わることができる。直実にしても敦盛を組み伏せればそれで勝負はあったのだから、組み伏せたところで止めて敦盛は頭を丸めて俗世界から去れば良い。血を大地に吸わせる必要はないのである。
 なぜ、人間は戦争のルールすら作れず、それを守ることもできないのだろうか?なぜ、直実は敦盛を殺さなければならないのだろうか?平家物語はなぜ名作として残り、現代の高校生を感激させるのだろうか?
 人間の頭はおかしいのだ。頭で考えて「正しい」と思うこと自体が「間違っている」のである。「人を殺すことは悪い」ということは十分に「判っている」。でも、判っていてもできない。より大きな「正しいこと」はより小さな「正しいこと」に負けてしまう。
 太古の昔、「戦いのルールを持たない動物」がいた。その動物は戦いをするごとに相手を殺し、やがて自然淘汰の中で滅びて消えていった。もし人間がより大きな正しいことを守ることができる、目の前の小さな正しいことを捨てることができなければ、人間はその頭脳の不完全さ故に滅びる。
 
 現代の環境問題・・・子孫のために人間は自然の恵みの中で生きなければならない・・・という「大きな正しさ」を守ることができず、「欲しいものは欲しい。経済発展は正しい」と「小さな正しさ」を優先していることと、戦争で人を殺すことを止められれば、人間は万物の霊長の一つの資格を得る。
「自然の叡智」を学ぶとはそういうことである。
終わり