-世に盗人の種は尽きまじ-

 今ではスイッチを押すだけで綺麗なお風呂に入れますが、昔は「お風呂をたてる」だけで一仕事でした。昼過ぎになると薪を切り出し、適当な分量が揃ったら五右衛門風呂の下の竈で焚き始めます。五右衛門風呂というのは下が丸く鉄でできているために熱が伝わりやすいので江戸時代は盛んに使われていました。

東海道膝栗毛の弥次さん喜多さんがとあるところで五右衛門風呂に出会い、何も知らずに入ろうとしたら風呂の底が熱くて入れません。仕方なく下駄を履いて入ったら風呂を壊したという失敗談を描いた絵も残っています。

私も昔、経験があるのですが、熱い釜の底に足が触れないように木の板をそろそろと沈めながら入ります。木の板の中心に足が来ないとひっくり返るので、注意してそっと体を沈めるのです。少し脱線しますが、「五右衛門風呂」というのは風呂の下が鉄製で上の部分は木で出来た桶のような形をしています。上の絵がそれです。でもそのうち全身が鉄で出来たお風呂が出現しました。これは本当は長州風呂と言うものですが、今では両方とも五右衛門風呂といっています。

ところでその「五右衛門」ですが、豊臣秀吉の時代に活躍した大盗賊で、河内の国石川村で生まれ長じて大盗賊になります。ある時、豊臣秀吉が伏見城に持っていた千鳥の香炉を盗もうと城に忍び込んで取り押さえられ、釜ゆでの刑に処せられました。その時の釜が後に「五右衛門風呂」と呼ばれることになった風呂だったのです。

また少し脱線しますが、石川五右衛門の話は彼が活躍した時代から200年ほど経って書かれた「絵本太閤記」で宣伝されたものですから、どれほど正しいかは不明です。一節に秀吉を暗殺しようとして忍び込み失敗したとも言われます。文禄3年に処刑の記録があるので実在の人物ともされています。

世紀の大盗賊、石川五右衛門がいよいよ釜ゆでの刑でこの世を去る時、辞世の句を詠みます。
それが、
「濱の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
という超有名なものです。この句は実に素晴らしく、この短い句の中に人間社会の本質が示されています。さすが五右衛門!

人間の性質は「悪なのか善なのか?」は昔から論争のあるところです。ある偉い人は「性善説」を唱え、別の人は「性悪説」を主張しています。もし人間の心がもともと悪いものなら、社会の規則は悪いことをしないように注意して作られなければなりませんし、もしもともと人間の心は良いのに、社会のシステムが悪いからついつい悪いことをするなら「良い社会」を作ればよいということになります。

性善説、性悪説というのはかなり真面目な話で、人間は本来、良い性質なのだから「ユートピア」を作り、みんなで働き、みんなでニコニコ、平等に楽しく生活をしようという試みが何回も行われ、その度に失敗したりしているのです。でもそんな詰まらない話はもう止めたいものです。というのはあの石川五右衛門が辞世の句で正解を出しているのですから。

私たちの心には、人の良いことをして喜んでもらいたい、自分も努力して立派な人間になりたい・・・という前向きの心と、あいつは憎い、イジメてやりたい、出来ればズルをして電車賃をごまかしたい・・・という後ろ向きの心が同居しています。多くの人は良い心もあれば悪い心もあるのですが、何億人も居るとその中には良い心がほとんどの人もいれば、悪い心だけと言ってもよい極悪人もいるということになります。

「そんなの当然だ」と思われるでしょうが、実はこの話は奥がとても深いのです。下に統計学で使われる「正規分布」といわれる曲線を示しました。いろいろなことに使えますがここでは横軸が「人の性質」のようなもので、縦がその性質の強さと考えてください。

私たちの心はこのようになっているのでしょう。普段の生活は自分勝手といえば自分勝手ですし、家族や友達のことを思いやる心が無いかというとそれは違います。「まあまあ」ということだと思いますが、それが上の図の中心になるのです。そしてσ(シグマ)という記号がありますが、おおよそ7割程度は普通で、3割は多少異常、さらに自分の心の中の5%(20分の1)ぐらいになるとかなり異常な面があるということを意味しています。

社会で悪い人というのはこの図の曲線の「頂点」が少し左に寄っている人で、そうすると普通の人が悪いと思うことでもその人に取ってはそれほどでもないということになります。

 少しゴチャゴチャしてきましたが、平均的な人の心の分布に対して、「悪い人」というのは少し分布が左に傾いているので、「悪い心の割合」が普通の人より格段に多くなることが判ります。分布の中心が少しずれただけでもずいぶん、心の中には悪い部分が増えることも理解できます。

 私たちの普段の生活でも「この位なら良いだろう、この程度は許してくれるだろう」と思っているうちにだんだん心が左に傾いていくことがあります。そうすると今度は自分の判断自体が左に行っているので「この位なら」の「位」がますます左に寄ってきます。生活が乱れるとなかなか立て直すのが大変であるのはこのような心の分布に因っています。

 「悪いことをしているうちに感覚が麻痺する」というのもこのことです。

 ところで私たちの「心の分布」は、大勢で暮らす社会では「人の分布」となって現れます。つまり上の図は私たち一人一人の心の分布でしたが、それが社会では縦軸が人数の分布に変わります。例えば、自分の心の中に「殺したい」という気持ちが1万分の1でもありますと、1万人に一人が殺人を犯すということです。

 統計的には3シグマといって上の図の一番下に99.73%という数字がありますが、これは「滅多に起きない」ということを示します。たとえば天気予報ですと雨の確率が3シグマ以外といいますと「降雨確率0.27%」ということですから、確率0%と表示され、ほとんどの人は傘をもって行かないでしょう。

 ところがもし自分の心の中に0.27%という少ない割合で「あいつを殺したい!殺したいほど憎いっ!」と思ったり、「あいつは死ねばよい」と思う心があるとしますと、0.27%ですから1万人の社会では27人が殺人犯になる可能性があることになります。

 石川五右衛門が、
「濱の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
と行ったことを現代風に言い換えますと、
「盗人がいるのは、自分の心の中に盗んでやろう、電車賃をごまかそうという心があるからで、その割合だけは盗人が出る。だから自分の心の中に盗む気持ちがある限り、社会の泥棒は無くならない」ということになります。

 今から20年ほど前のことですが、ある人が私に、
「武田さん、なんで暴力団というのがあるんですか?「暴力団」と言うぐらいなら暴力を振るうのだからすぐ監獄に入れれば良いじゃないですか!」
と言いました。私はその時、
「ダメなんだ。暴力団を捕まえてもすぐ新しい暴力団ができるから、意味がないんだよ」
と答えたことを覚えています。

 暴力団とは私たちの心の中にある暴力的な部分を代表してくれている人たちで、その人たちがいなくなるためには私たちの心の中に暴力的な部分がなくならなければなりません。

夏になり、なにか痒い(かゆい)と思って腕を見ると蚊が血を吸っているではないか!癪に障ってピシャリとその蚊を叩いて殺したとします。それは私たちの心の中に暴力で片付けようとする気持ちがあるからです。でも蚊に「痒いからあっちへ行ってくれ」と行っても蚊には言葉が通じませんし、第一、蚊は人間の血を吸わないと生きていけないのですからどうにもなりません。

でも暴力団が社会から無くならないのは、まさしくその事なのです。ですから・・・盗人がいるのは社会や人間、そして生命の根源に関わることですから、「濱の真砂」、つまり海岸にある砂粒が全部無くなってしまっても・・・そんなことはあり得ませんが・・・それでも盗人が居なくなることはない、それほど盗人というのは人間そのものなのだ、石川五右衛門はそう言ったのです。

このように社会の動きは私たちの心の鏡のようなもので、社会の現象を見ていると自分が恥ずかしくなります。

おわり