-中村さんの8億円とジェニファーのイチゴ-

 ちょうど、1年ほど前のことだった。新聞やテレビが一斉に
「中村修二さんおめでとう!!
と報じた。

・・・その記事・・・
 「ノーベル賞級の発明とされる青色発光ダイオード(LED)を開発した米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授(49)が、かつての勤務先で、青色LEDの特許権を所有する日亜化学工業(徳島県阿南市)に対し、発明に見合った対価の一部として200億円の支払いなどを求めた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。
 三村量一裁判長は「充実した研究部門を備えた大企業と異なり、小企業の貧弱な研究環境の下、個人的能力と独創的な発想で世界的発明を成し遂げた、職務発明としては稀有な事例だ」と述べ、「発明の対価」を少なくとも604億円と認定した上で、請求通り200億円の支払いを命じた。」

 中村さんは今ではカリフォルニア大学の教授だが、もとはサラリーマンだった。中村さんがサラリーマン時代の研究・・・青色発光ダイオード・・・が成功して会社は全部で1200億円、中村さんが直接関係した部分では600億円も儲けた。だからその3分の1は中村さんのものだと言う判決だった。

 裁判は会社側が控訴して高裁にあがり、結局、約8億円少しで話し合いがついた。中村さんは少し不満顔でテレビの会見に応じ、「会社で働く技術者の励みになれば」とご自分はお金が欲しかったわけではない、技術者を代表してお金を獲得したのだと言われていた。

このことの感想を言う前に、1つ話を入れたい。一つはサスペンス映画の巨匠のヒッチコックの作品「ハリーの災難」の一場面である。

 ・・・・美しく紅葉した森に囲まれたのどかな村、そこに住む画家のサムと、未亡人のジェニファー、そしてワイルス船長に未婚でご年配のご婦人グレイヴリー、登場人物はこの4人とあとは少し登場する数人という映画である。

   
(個性的で魅力的だったシャーリー・マクレーン)

 話の筋はコメディタッチのサスペンスというところだが、未亡人ジェニファーに求婚していた画家のサムの絵が通りがかりの富豪に認められて高く売れる。

「何でも欲しいものがあったら言ってください。お金は出しますから」
という富豪に、サムはジェニファーの方を向いて
「何か欲しいもの、ない?」
と聞く。ジェニファー、ちょっと首をかしげてからサムに耳打ちする。
サム「季節になったらイチゴ、一ダース」
富豪「そんなもので良いのかい?おやすいご用だ。」

 仲良しの画家と未亡人、そして元船長とミス・グレイヴリーはそれぞれ自分の欲しいものを言うのだが、それがみんな高価なものではない。でも「欲しいもの」なのである。富豪はそれを聞いてなかばあきれ、それでも絵を安く買えたのだからと満足して帰っていく。

 私はこのシーンが好きだ。絵はべらぼうに高い値段で売れた。のどかな村では使うことができないほどのお金。でもそのお金でこの4人の生活が良くなるわけではない。値段の高いものが自分の人生に必要だったり、楽しかったりはしない。のどかな秋の一日に、入れ立てのティーとブルーベリー・マッフィンが美味しい。食べるものは貧しくても美しい景色と愛する彼女がいる・・・それで十分なのだ。

 現代・・・それは「お金まみれの幻想に浸かっている時代」と後世の歴史家は評価するだろう。私たちにとって「どちらでもあげると言われたら、1万円と10万円とでは10万円が良い」というのはあまりにも当然のように思える。「明日、休んでも良いし、会社に出てきても良い」と言われると休む方が良いに決まっていると思う。

 でも、日本人が「働くより休む方がトク」「お金をもらうなら多い方がトク」という感覚を持つようになったのはそれほど前ではない。少なくとも江戸時代には少数の商人を除いて「普通の人」は生活ができるだけのお金があれば良く、仕事を何時に止めるかは本人が決めているのだから「終業のチャイム」はならなかった。

 今では「働く方が正しい」「勤勉は善」という幻想があるので、フリーターはケシカラン!ということになるが、江戸時代はフリーターが8割がたいた。江戸時代は「働くのは人生の為だから、働く時間はできるだけ少なくして、人生を楽しもう」という考え方であり、現代は「人生は働くためにあるのだから、際限なく働き、際限なくお金を儲けよう」という考え方である。

 江戸時代の終わり、日本に来た外国人手記を見てみよう。

「若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きているのを見た。労働それ自体が最も純粋で激しい情熱をかきたてる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分の作るものに情熱を傾けた。彼らには、その仕事にどれくらいの日数を要したかは問題ではない。彼らがその作品に商品価値を与えたときではなく、かなり満足できる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるのである。」(スイスの遣日使節団長アンベールは自国の職人の回顧)
 
 お金を儲けようと思うと、それが目的化される。それが大商人であり、人々は「生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きている」のである。だから終業のチャイムは鳴らず「満足できる程度に完成したとき」に仕事を止める。それなら仕事はイヤではない。

このような人生の考え方は中世ヨーロッパのゲルマン民族の社会で同じで、「生活に必要なだけのお金でよい」「働くことは大切なことだ」という考え方だった。むしろお金が多い方が良いというのはここ200年ほどでできてきた特殊な考え方なのである。

 さて、中村さんの8億円に話を戻そう。

 私なら8億円はいらない。私は研究に失敗することがあるから。
 私なら8億円はいらない。私の研究は営業も含めて大勢の人に支えられているから。
 私なら8億円はいらない。私が研究を始めたとき、成功するかどうか判らないとき、私はお金を出さず、会社がお金を出してくれたから。

 私なら8億円はいらない。私は今のお金で生活ができるから。
 私なら8億円はいらない。私の人生はお金では変わらないから。

 人間はその人によって考え方が違う。だから中村さんは8億円を求めたが、私はいらなくてもそれはその人、その人の考えで、どちらが正しいということはない。思想の問題だから。目の前に8億円が積まれたら自分ももらうだろう。でも自分から請求はしない。

中村さんは「技術者の励みになる」と言われた。だけれども私は「お金がもらえれば技術者は一所懸命やる」とも思わない。それは社会観や人生観が違うからである。

 ところで、この8億円の話をすると中村さんという立派な技術者を非難することになるので、迷ったのだが、その上で私が中村さんの話を書こうと思ったのは、社会が「技術者は金で動く」と思われたらと心配したからだ。

 会社に入って研究者の生活に入るとき、(中村さんは違ったかも知れないが)、多くの人は「自分がやりたいテーマ」に取り組むのではなく、会社が必要としているテーマを担当する。もし自分がやりたいテーマをするなら自分の資金で研究しなければならない。失敗するかどうか判らないのに、自分の好きなテーマを会社のお金を借りてそれを資金にするのは心苦しい。会社というけれどその実体はみんなが現場で汗を流し、営業が走り回って稼いできたお金だ。

 そして研究テーマの大半は失敗し、成功するのは「センミツ」といって、1000ヶに3つとも言われる。成功した時にお金をもらうと、次の研究で失敗するとお金を取られる。それだけ会社に損害を与えたのだから。そうすると会社に入ってテーマに恵まれず、失敗ばかりしている研究者の家庭は悲惨なことになる。

 だから暗黙の内に会社の中では「バーチャル研究者組合」のようなものがあり、
「一人一人が研究のリスクを負うのは難しいので、みんなで平均化しよう。そして成功した人には名誉と拍手を上げよう。私たちは研究をお金では換算しない。」
という不文律があるのだ。

 中村さんの個人的な意思は別にして、今回の裁判で会社における技術者のテーマ設定、失敗した時の保護などは明らかになっていない。この裁判が真に社会の発展に寄与するなら、裁判官はそこまで言及する必要がある。裁判の判決は論理的で完結していなければならない。

 ところで批判したついでであるが、200億円と8億円はあまりにも離れている。この数字もまた今回の判決の意味を薄くしている。「対価」とか「要求」というのはその合理的根拠があり、請求側は自分の信念に基づいた数字を述べるべきである。

 相手がいるので時に妥協も必要だが、200億円の請求に8億円で「妥協」すれば、それは最初の要求が「ぶっかけ」であったことを証明していることになる。だからこの話が技術者のモチベーションに役立つとしたら、なぜこのような大きな差が出たのかを説明しなければならない。

 そうしないと今後も、2000万円を要求したら、80万円で我慢させられる事になる。

この判決が日本の技術者の地位を上げるとは思えない。かえって会社の中で技術者を孤立させるだけだろう。技術者は会社の一員でないことが明らかになり、お金をもらえば技術者自らが会社の一員でないことを認めることになるからである。

ところで、中村さんの事件があっても、私は相変わらずお金とは無関係に研究をしたい。それは慎ましく生きることができればそれ以上のお金はいらない。「正当な報酬」などという概念は技術者、科学者としての私にはもともと無い。

おわり