― サイドブレーキのかけ忘れ ―

 

 2006年4月21日、朝のニュースで幼い少年が無人のトラックに轢かれて死亡した哀しい事件を報じていた。緩い坂の途中に止められていたトラックのサイドブレーキが不完全だったので運転手が乗っていないのに動き出し、坂の下を自転車に乗って通りかかった少年がそのトラックに轢かれたという事件だった。

 最近の朝のニュース番組、特に民放の番組にはいわゆる「コメンテーター」と呼ばれる人たちがニュースの解説をする。この事件は工事現場の横に停められていたトラックを何かの事情で少し動かさなければならなくなり、その現場の人が動かしたという。

「おい、じゃまだから車を少し動かしてこい。」
「ハイ・・・」
といって若い衆が車に行き、おそらくは2メートル程度、動かしたのだろう。その時にサイドブレーキをかけ忘れた。

 テレビではアナウンサーが、
「動かした人は運転免許を持っているのですが、違反をして免許停止中だったそうです。」
と言い、それを受けてコメンテーターが、
「だいたい、工事現場の管理がなっていないんですよ。免許停止中の人にさせるなんて、まったく!」
と怒って見せてそのニュースはそれで終わっていた。わずか数分間の事だった。

 でも、不運にしてトラックに轢かれた少年はさぞかし無念だっただろう。彼には洋々たる将来、無限の夢があっただろうからである。そして家族や友人もまた深い悲しみに包まれたに相違ない。貴重な人生がトラックを僅か2メートル動かしたというそれだけのことで閉じられてしまったのだ。

 1億2千万人の人が住み1000万台近くの車が毎日のように動いている日本。人間のすることだから多少の間違いはある。仕方がない・・・ともかくニュースも多く、少年が一人ぐらい犠牲になっても仕方がない・・・そんな雰囲気がテレビに感じられ、私は言いようもない悔しさでその日は大学に行った。

 この事件は、トラックを動かした人が免許停止中だったとか、轢かれた少年がトラックの後ろをすり抜けようとしたとか、そういう表面的なことで片付けてもらっては困るのである。もっと深い本質的な日本社会の安全安心に拘わっている。

 次のグラフは実に衝撃的だ。

 横軸が西暦で1950年から2005年までの55年間を取ってある。そして左の縦軸は交通事故で死傷した人、右は死亡した人である。1950年、第二次世界大戦が終わった直後には交通事故による死亡者はほとんど無く、負傷者も少なかった。



 写真は1955年に発表された純粋な国産第一号の乗用車「クラウン」。観音開きの扉を持つこの高級乗用車は、その後も日本の自動車業界のフラッグシップとして多くの人に利便と誇りを与えてきた。

 でも、私たちに限りない便利さと文化的生活を与えてくれた、この優しいクラウンの顔つきにはなにかシャークのようなどう猛さが隠れていないだろうか?クラウンが発売されて数年後、1960年代に入ると日本の交通事故による死亡者は1万人に達した。

 社会は驚愕し、この悲惨な状態を「交通戦争」と呼んだ。まさに日常的に人が悲惨な死に方をするのだから、まさに戦争と呼ぶにふさわしい。戦争はいけない。反戦運動をしなければならない。それと同じように交通戦争も止めなければならない。それには「武器」を捨てることが第一だが、それが難しいところにこの問題の神髄がある。

それから35年。年間1万人を前後する交通事故による死亡者は30万人に達する。負傷者に至っては毎年100万人規模だから3000万人である。良くこんな数字を自分も平気で口に出来ると思う。

 日本の人口は1億2千万人だから国民の4人に1人が交通事故で怪我をしていることになる。かく言う私も一度、交通事故で怪我をして病院に運ばれている。でも私は若い頃はオートバイが好きで、今でも車に乗っている。高度成長の時には浮かれた気分になって2台の乗用車を保有していた。

 だから私には自動車を批判する資格はないが、それでも私は無念の死を遂げた少年の代わりに一言、言いたいことがある。テレビのコメンテーターがあまりに低次元のコメントで話をくくったことに何となく割り切れないからでもある。

 実は現代の日本社会で自動車は便利な近代製品であると共に、どう猛な殺人鬼なのである。1年に120万人の人に怪我をさせ、1万人の人を殺している、そんな「製品」というのは考えられるだろうか?自動車が出現した20世紀の初頭、馬車よりのろのろと走る内燃機関を積んだこの乗り物が将来、多くの人に悲惨な思いをさせる殺人鬼、吸血鬼であることは誰も想像しなかった。

 事実、上のグラフで判るように自動車が登場してきた日本でも最初は交通事故死がほとんどゼロだったのである。どう猛な殺人鬼はその最初の登場の時には正体を現さなかったのである。

 話は少し脱線するが、三菱自動車のパジェロの事件が盛んに報道されているとき、私も2,3のテレビや新聞でコメントを述べた。欠陥のある事を知って自動車を売った三菱が、欠陥が原因して人が死んだのに「運転手の責任」と言った、そんな事件だった。その事件のコメントの中でカットされたものがあった。それは次のようなものだった。

 「ある人がお米を炊こうとして電気釜を買った。それまで薪で火をおこし、釜を使ってお米を炊いていた人にとって見れば、電気を入れるだけで美味しいご飯を食べることが出来る電気釜は素晴らしいものだった。でも、電気釜には欠点があった。

 これからはたとえ話だが、3合のお米を炊くときに電気釜の内釜に水を入れる目盛りがついている。その目盛りを3合にキチンと合わせれば良いのだが、その目盛りより多く水を入れると炊き終わる頃になると釜の中の圧力が上がり爆発する。

 昨年は5人死に、今年はまだ3月なのに3人も死んでいる。人が死ぬような電気釜は欠陥商品だ、いくら便利だからと言って「間違えて使ったぐらいで人が死ぬようなものは商品ではない!」とマスコミは怒り、たちまちこの便利な電気釜を作ったメーカーはつるし上げられ、社会的責任を問われ、倒産した。」

 「殺人電気釜」の話と「現代の自動車」とどこが違うのですか?という問いかけが私のコメントだった。三菱自動車の不祥事は三菱という体質の問題でもあるが、「ある人が悪い、ある会社が悪い」と言うだけではなく、日本の将来に向けてもう少し前向きに考えてみたらどうか、ということだった。

 でも、三菱自動車の不祥事は「三菱の体質」の問題として片付けられ、今回のトラックで轢かれた少年の事件も「免許停止中の人にトラックを移動させたから」として「個人のだらしなさの問題」として片付けられた。

 私は違う考えを持っている。

 性能の良い最近の乗用車は200馬力を超える出力を持ち、最高速度は表示されていないが時速200キロを超える車もある。日本の高速道路はせいぜい時速100キロ、普通の道は時速40キロから60キロである。あまりにも大きい馬力、あまりにも速い速度、「暴力的な車」と表現される車種すらある。

 かつて車のカタログには「最高速度140キロ」という数字が誇らしげに出ていた。でも「どこでそんな速度を出すの?」という素朴な声に答えることが出来ずに、現在のカタログには最高速度が表示されていない。自動車にとって最高速度というのは基本的な数値である。出力200馬力というのはエンジン性能であって、サスペンションや車体性能を含んではいない。最高速度、加速度、燃料消費量、車体のデザイン、インテリアなどが工業製品としての自動車の生命線と言える性能である。

 自動車会社はなぜ最高速度を隠すのか?それは「殺人自動車を作っている」という自覚があるからである。ならば、なぜ殺人自動車を作るのを止めないのか?それは「自分の給与が減るから」である。

 社会は姉歯建築士をなぜ糾弾するのか?それは「殺人マンションを設計したから」である。ならば、なぜ姉歯建築士は偽装された設計をしたのか?それは「自分の給与が減るから」である。

 姉歯さんが設計したマンションを購入した人はなぜ怒るのか?それは「自分が死ぬ」からである。ならば、なぜ工事現場の人はトラックを買っても怒らないのか?それは「自分ではなく、少年が死ぬ」からである。
 
 「自分の給与が減るから殺人商品を作る」「自分は死なないが、少年が死ぬなら良い」と言う感覚は感心したものではない。でも現実的に自動車を手放すことは出来ない。解決策がないのだから仕方がない・・・と思う。

 そう言えば、上の図で1990年頃から交通事故による負傷者は増えているのに、犠牲者は減っているという奇妙な事に気がつく。救急体制が整って本当に交通事故で死ぬ人が減ったのなら嬉しいことであるが、事故のあと24時間以内に死亡した人が7358人であった昨年の平成16年、30日以内に亡くなった人8877名、そして1年以内に交通事故が原因で死亡した人は10,854人だから複雑な気持ちになる。

 「交通事故死の定義」もまた「最高速度の表示」と同じように、「国民に交通事故はたいしたことはないと印象づけるための小細工」ではないかと勘ぐりたくなる。私たちは表面だけ交通戦争に反対しているのではなく、本当に「反戦」なのだから。

 私はここで一つの提案をしたい。

 少年がトラックに殺された事件では私は次のようにコメントする。
「現代の技術で「運転手がいない状態で車が動き始めたら、それを止める装置」など簡単に自動車に付けることができます。人間は時としてボンヤリするものだし、人によっては不注意な人もいます。だからといって少年が殺されて良い、などという考え方に私は納得しません。」

 自動車のカタログを見ると「安全性能」というのが必ずある。でもその「安全」とはドライバーの安全であって、自動車が少年を撥ねて殺すことを防ぐのではない。あくまでも「自分が死ななければ自動車を買う」という希望に沿うものである。

 技術的には、人を傷つけず、楽しく走れる自動車を作ることはできる。日本の自動車工業界が申し合わせればそれでできる。談合かも知れないが、このような明るく前向きの談合は許されるだろう。

 一人の少年の死。それは「たった一人」ではない。その後ろに無念の思いでこの世を去っていった30万人の人がいることに私たちは思いを馳せなければならない。若くして不条理のうちにこの世を去った少年の無念を私たちは人間の心で受け止めたい。

おわり