― 知っていることで「正しい」とする ―

     1687年、ニュートンはその著書「プリンキピア」で「万有引力」というものがあることを初めて世に示した。それによって、人類は「地球上に住んでいて物が落ちるのは万有引力という力があって、その力で地球の中心に向かって引き込まれるからだ」ということを知ったのである。

   

     人類が誕生してから600万年、そこまで遡らなくてもメソポタミア、インダスなどの文明が芽生えた頃から既に1万年以上経っている。その頃から都市も発達し、王様も誕生した。人の心は複雑になり、頭で色々なことを考えるようになった。

     でも、日常的に起こることでもその理由が判らないことが多くあった。その一つに、なぜ「手を離すと物が落ちるのか?」という疑問があり、それが解けなかったのである。物が落ちるのだから何かが引っ張っているに違いない。崖から人が地面に落ちると、すごい力で地面と衝突してグシャと潰れる。こんなに激しいのだから、きっと地の中から強い力で引っ張っているに相違ない。

     考えた末、古代の人は「地球の中に悪魔がいて、引っ張っているのだ」と理解した。万有引力というものを知ってしまった私たちにとっては、「そんなバカな!」と言いたくなるが、もし万有引力というものを知らないとして、何かの説明をしなければならないとしたらどうするだろうか?

     万有引力を一度、知ってしまうと、「物はお互いに引き合う」ということも理解するが、自分が動くと地球も僅かに動いていることなど判るはずもない。単に、「落ちる」ことだけしか判らない。

     そこで昔の人は、次のように説明した。
    「悪魔が土の中から引っ張っている。」

     人間は「不明」では納得しない。説明が間違っているかどうかより、説明が無いことの方が不安である。だから「なぜ、落ちるか?」という質問に対して、「判らない」より「悪魔が引っ張る」を採用したのである。もしかすると悪魔などいないと思っていた人もいるだろうが、だからといって説明が出来なければそれで満足するしかない。

     ところで、著者が悩んでいることは、次のことである。
    1) ニュートン以前には悪魔だった。
    2) ニュートン以後は万有引力になった
    3) おそらく1万年後は違っているだろう。
    4) だから、私が今、万有引力で説明して良いのか?

     著者は環境運動家に良くこう言うことがある。
    「自分で思うだけなら何でも良いが、人を説得するにはそれなりの根拠がいる。」
    たとえば省エネルギーを人に勧める時には、省エネルギーが環境に良い方向でなければならない。でも歴史的事実から見ると省エネルギーはエネルギー消費量を増やすから環境に悪い。

     このように事実や真実というものは難しい。私たちの頭脳には制限がある。それは、
    「今の知識で判断して正しいと思うことを正しいと思う。」
    ということであり、知識が変わることを考えれば、
    「今の知識で判断するということは、それで正しいと思うことは間違っている。」
    ということになる。

     学問は矛盾を内在する。それは現在の知識で正しいと判断するのが学問だが、同時に学問は現在の知識を覆すために存在する。ニュートンは「悪魔が引っ張る」ということが間違っていることを示した。人類が1万年近く「正しい」と思っていたことを覆したのだから、彼が発見した原理もいずれは覆される。

     人間は「今、正しいことは永遠に続く」と考えがちであるが、それは論理にも反するし、歴史的事実でも無い。平安時代の人にはセルシオは思いつかないが、1000年後の人から見るとセルシオは牛車に見えるかも知れない。

     学問や進歩というものは空しいものだ。

    おわり