― 人間の想像力とコンピュータ・シミュレーション ―

 錬金術、石や鉄などのありふれた元素から、金や銀を作ることができたら・・・それは中世ヨーロッパ科学の大きな興味だった。多くの学者が何年も何年もフラスコとアルコールランプを使って「元素を変換する」という「科学」に取り組んだ。

 そして1000年の月日が経ち、19世紀の後半には「元素は不変なものである。石を金に変えることなど出来るはずもない。「錬金術」というのは人間の欲望の科学であり、いかがわしい」とされるようになった。

 西暦1600年から1700年にかけてガリレオ(1564-1642)やニュートン(1642-1727)が近代科学の基礎を作り、フランシス・ベーコン(1561-1626)やデカルト(1596-1650)が精神的支柱を構築した。近代科学はその後、爆発的に花開き、数学、物理、化学、機械工学、電磁気学、材料科学などの分野でめざましい発展をすると共に、「物事は合理的、科学的に考えて良いのだ」という確信が生まれていた。

 「錬金術」という言葉はその後、「いかがわしい科学」という意味で使われるようになった。

 20世紀がまさに開けようとしていた1990年代、フランスの大学の片隅で「近代錬金術」の実験が行われていた。実験担当者はマリー・キュリーとその夫、ピエール・キュリーだった。彼らは予備的な実験でその存在を知ったラジウムなどの新しい元素を確認するために大量のピッチブレンドを取り寄せ、毎日、毎日、前掛けをかけて容器の中のどろどろした液体を混ぜ合わせていた。

 それから数年経って、マリー・キュリーは新しい元素「ラジウム」を発見する。そしてそのラジウムという元素が強いエネルギーを出しながら、「ラドン」「ポロニウム」と変化していくことを突き止めたのだった。

 「一つの元素が別の元素に変わる」という科学的事実が実験によって発見された瞬間だった。錬金術は正しかったのだ。

 その後、原子核の構造が判り、原子核反応が解明され、今では「ある元素から別の元素を作る」というのは当たり前になり、現在の宇宙は水素から順次、別の元素を作りながらできあがってきたことが判っている。「錬金術はいかがわしい」といった人は自分の浅はかな発言を恥じなければならないだろう。

 人間の頭にはある特徴がある。それは
「現在、正しいと考えることは、現在の知識の範囲内である」
ということである。当たり前のように見えるこのことは実は非常に奥深い内容を持っている。でもこのことについては別の機会に譲ることにする。

 人間の頭が「現在の知識の範囲で正しいと考えていることを、正しいと思う」という特徴があるとして、最近、天気予報やさまざまな分野で広く使われている「コンピュータ・シミュレーション」との関係を考えてみたい。

 コンピュータ・シミュレーションというのは、ものすごく計算の速いコンピュータの特徴を活かして、自然現象などを解明するものであり、科学者はまず、対象とする自然現象を観察し、その神髄部分を取り出し、それに適合する式を選択する。

 多くの場合、これまでの数学や物理学で打ち立てられた式が有効であり、それを差分法やいろいろな近似法を用いて、コンピュータが計算しやすいように手を加える。そしてコンピュータで計算し、結果を出す。これまで手計算では不可能だったことが次々とわかり、さらにグラフなどを書かせると本当に素晴らしいものである。

 でも、これを学問として考えるとどうだろうか? ここで、学問を「現在、まだ発見されていないことを見いだす作業」と仮定することにする。

 コンピュータ・シミュレーションは対象とする自然について、「現在の知識」で認識する。そして「現在知られている数式」を用い、それを「現在、すでに判っているテクニック」を使って、「正しく」計算する。つまり、現在すでに判っていることだけを行い、それで100点満点を取ることに全力を注ぐ。

 もちろん、この過程は大変、難しい。自然現象を抽象化するだけでも大変だし、それをコンピュータ・シミュレーションで使える式を選択し、手法を適応するのは並大抵ではない。さらにコンピュータは計算速度が速いと言っても複雑な自然現象を解析するためにはまだまだ遅いので、計算に工夫を凝らす。すべて高度な作業である。

 でも、得られた結果は空しい。なぜ空しいかというと「最初に予想した通りの結果が出るのが成功したケース」と言うことだからである。最初に予想した通りに結果を出すなら計算しなくても判っている。コンピュータ・シミュレーションはそういう特徴を持っているのである。
 
 それに対して実験はどうだろうか?実験の計画をして「おそらくこういう結果が得られるだろう」と予想して実験して、その通りの結果が出るとガッカリする。それなら最初から実験しない方が良い。「成功した実験」というのは「実験を計画した時には考えも及ばなかったことが起こった」という時である。

 自然は常に意外である。もし、キュリー夫人が「実験」をしないで、彼女が実験をし始める時のデータでコンピュータ・シミュレーションをやったとする。もちろん、彼女が使ったであろう仮定や数式の中には「元素は別の元素に変わらない」という前提が入っているはずである。

 だから彼女がコンピュータ・シミュレーションを知っていたら、世紀の大発見は無かっただろう。

 科学とはどういうものだろうか?
 発見とはどういうものだろうか?
 人間には創造力というものがあるのだろうか?

 コンピュータ・シミュレーションはさまざまなことを教えてくれる。もちろん、コンピュータ・シミュレーションをやっている多くの研究者はこのことが判っており、その上で使用しているのは当然である。また逆に、実験をしている人は厳然たる結果を前に、時に呆然とし、時に悔しい思いをする。

 先日の実験で得られた結果が、今日はどうしても再現できないこともある。自然は厳しく、妥協はしない。だからと言ってその実験結果が間違っている訳でもない。錬金術が1000年の長きにわたって真実とは異なる結果を出したように、自分の目の前に出された実験結果そのものが、また真実とは違うことも科学の難しさであり、面白さである。

おわり