― 胼胝(たこ)と集団の中の自分 ―

 今はパソコンになったのであまり見られなくなったが、少し前まで右手の中指の内側に「ペンダコ」が出来ている人が多かった。

 いつもペンを強く握っていると、ペンが当たるところの皮膚がだんだん、硬くなってくる。そしてそのうち皮膚の表面が変化してきて、写真のようにすっかり「胼胝」になるのである。そうなったらもうカチカチだから強く握っても何ともない。

 しかし、何でペンを握ると、こんな変なものができるのだろう?

 毎日、毎日、ペンを握っていると中指の内側が強く押される。たとえば、勉強家の人がいて、朝の9時から夜の11時までペンを握りっぱなしだったとする。その間、中指の内側は押されっぱなしである。人間の体は細胞でできていて、細胞の中は水分や核、ミトコンドリアなど多くのものでできている。

 それが圧迫されるのだから細胞が損傷する。一日中、損傷したので夜の11時から明くる日の9時までにその皮膚の細胞を「修復」しなければならない。そこで体は毎晩、毎晩、せっせと損傷した細胞を治す。

 それが何日も何十日も続くと、人間は飽きてくる。というか、現在ではまだ「飽きたから」か「疲れたから」かは判っていないが、ともかく毎晩、治すのがやっかいになってくる。そこで体の細胞が相談して、
「どうも、この人は毎日、ペンを持つらしい。これからもずっと続きそうだから、この際、毎晩、修復をしないで済むようにしよう」
ということで合意する。

 この決定は指の細胞に伝えられる。通知を受けた細胞は「わかりました。明日から準備をします」と答え、次の日からペンで圧迫されると少しずつ細胞を崩していく。そして何日か経つとその皮膚の表面の細胞は死に、後に「角質」と呼ばれる、死んで硬い細胞の残骸が残る。これが「胼胝」である。

 生物は節約家である。だから毎日、毎日、修復しようとすると治すための栄養もいるし、それを運搬したり、修理した時に出るカスも持って帰らなければならない。そんなことならその細胞に死んでもらうことの方が節約できるという訳である。

 ペンに押されて死ぬ細胞が、体全体の細胞の決定に従うのか、それとも自分自身で死を覚悟するのかはまだハッキリしていない。でも論理から言うと決定に従っている様に見える。もし、皮膚の細胞が体の他の細胞と独立していて、それはそれで単独で生きていたら、「抵抗せずに死ぬ」ということは無いからである。

 生物というものは、必ず生に執着する。単独なら絶対にそうである。でも、全体のために犠牲になるなら、生物は抵抗しない。従容として死に対することができる。

 胼胝だけではない。体の表面にある細胞は外からの攻撃にさらされ、何日か経つと「劣化」するので、自らが「垢(アカ)」となって落ちる。木々の落ち葉もそうである。落ち葉が落ちたからその木の全体が死ぬわけではない。反対に、全体が生き残るために落ち葉が落ちる。

 一人の人間、一本の木では、その一部の細胞が全体の命の犠牲になって死ぬのに何の「苦痛」も感じない。それは私たちの体のような多細胞生物ができて以来、多細胞生物の細胞は「集団に参加するのは結構だが、全体のために死んでもらうこともある」という契約のもとで参加しているからである。

 人間を作っている細胞は、同じ人間なら遺伝子も同じである。遺伝子が同じなら、全体の個体が生き残れば良いので、部分的には死んでも苦痛はない。

 昆虫のアリは、一つの個体はもちろん同じ遺伝子を持っているが、兄弟姉妹の血は特別に濃い。少し、難しい話になるが、オスとメスで子供を作る有性生殖生物の場合、体の中に同じ遺伝子を二つ持っていて、それが分裂して、生殖細胞を作る。

 その時に、父親からもらった遺伝子と母親からのものを少し混ぜ合わせて、半分にする。オスもメスも同じことをしてから、半分ずつ遺伝子を出して子供を作る。だから子供は父親と母親から遺伝子を半分ずつもらって新しい個体を作る。

 でも、アリは違う。オスは一倍体、メスは二倍体だから、オスの子供は父親の遺伝子をもらい、メスの子供は母親からは半分もらうが、父親からはそっくりもらう。だからアリの姉妹は四分の三だけ遺伝子が同じなのである。

 この奇妙なことはすでにハミルトンの業績で証明されているが、母親と娘は50%だけ遺伝子を共有しているのに、姉妹は75%も共有しているのだから、自分と妹の区別はつきにくい。だから、メスの集団では平気で「集団のために自分を犠牲にする」という行動が見られる。

 どうも、遺伝子が75%も同じであれば、「人のために死ぬ」というのは苦痛にならない。そして人間の親子でも「母親が子供のために犠牲になる」というのは良くあることである。母親と娘の遺伝子は50%が共有されているから、苦痛はそれほど大きくはない。

 サケはそれが嵩じてシステム化されている。産卵のために川を遡上してくるサケは、河口から遡る間、まったく餌をとらない。そして産卵場所に着くと交尾し、産卵し、そして死ぬ。まだ体がしっかりしていても寿命は尽きる。その体をやがて生まれてくる稚魚に与えるためである。

 60年前までは「国家のために死ぬ」ことは名誉であった。日本という集団を守ること、それは自分の身を守ることより大切であり、それこそが男の命の源であった。平和になった今、「全体のために犠牲になる」という考え方は、間違っているように言われる。でも、それは「自然の叡智」ではない。
 
 自然の叡智は自己犠牲を求める。私たちの体の中には自己を犠牲にして全体に尽くしたいという衝動が渦巻いている。そして現代はそれを頭の論理で押さえつけているだけである。母親は自分だけの朝にはご飯を作る元気が出てこないけれど、子供の遠足の時には朝早く起きて子供が喜ぶお弁当を作るのに何の苦痛もない。

 男性の若者は、自己を犠牲にするのが平気だ。その代わり自己を大切にすることはできない。それに苦しむ。自分が立派になるために努力する力はどうしても湧かないが、チームのため、研究室のため、郷里のためなら力が湧いてくる。若い女性は自己を犠牲にすることができない。それは生まれてくる自分の子供の犠牲になる準備をしているからである。

 現代の日本の社会は、江戸時代までの「人間の本性に基づく、自然の叡智を組み込んだ社会」から「浅い知識しか持たない頭脳で考えた歪んだ社会」に移って150年を経たところにある。さらに戦争に負けたこともあって、その後の日本社会は浅薄な知識人のリードで作り上げられてきた。

 私たち人間は多細胞動物であり、社会は遺伝子を共有する人たちの集団である。教育の現場でも、社会でももう少し人間の集団性、犠牲的精神を表面に出した人間関係を作っていけば、生き甲斐のある日本を作ることができるだろう。

おわり