― ムール貝の倹約精神 ―

 少し前の日本ではあまりなじみが無かったが、今では「ムール貝」と言えば知らない人は少ない。白ワインで蒸したムール貝はレストランばかりではなく家庭でも出されるようになった。

 貝としては大きいし、形がいびつで色も黒い。蛤(はまぐり)のように上品ではないが、それでも食材としては華やかさがある。このようにムール貝は食料としてはあまり高級ではないが、その生活態度は立派で、私たち人間の模範となるところがある。

 ムール貝はイガイの仲間でムラサキイガイと呼ぶのが正しい。学名をMytilus edulis.という。亜種もあってM.galloprovincialisがアジアに、M.trossulusが北太平洋にいる。フジツボ、牡蠣などと共に「付着生物」と呼ばれ、どこかにペタンとくっついて生活する。

 北海道に一部、記録があるが、基本的には昔の日本では知られていなかったが、1920年代に外国船の船底にくっついて来たのが最初らしい。船底や岩に非常に強く付着し、強い波を受けたぐらいでは全く動じない。

 海の動物にとってどこかにピッタリと付着しているのは実に都合がよい。陸上と違って海の中は激しい海流があるので、その海流で餌が流されてくる。だから自分で餌を探しに行かなくても、どこかにくっついていて口だけ開けておけば、餌が飛び込んでくるという訳である。

 空気はあまりに軽くて物を運ぶだけの力はない。土はあまりにじっとしていて物を運ばない。それに比べて水は重いのに移動する。だから何でも運ぶのである。そこをムール貝は利用して、普通は岩にとりつく。

 ムール貝が岩にとりつく様子は実に見事である。

 まず貝の本体の中から屈曲性のある足を出す。その足の先端で自分がこれから取り付こうとする岩の表面を慎重に探索する。「毒性のものはないか?汚れていないか?」と調べるのである。

 それでOKになると、足の先で岩の表面を擦り、綺麗にする。

 さらに吸盤のような形のものを出して岩の表面に真空を作る。

 その中に「接着剤」になる原料を吹き出す。これは泡状であり、タンパク質で出来ている。

 すべてがOKなら硬化剤を分泌して、その接着剤の原料を固めて完成する。できあがると足をはずして岩に接着している「足糸」を残し、足はまた別の場所を探して接着作業をしてそこにも「足糸」を残す。

 かくして作業が完了すると何本か足糸が岩から自分の体につながり、それでしっかりと固定されるという訳である。ムール貝の料理をする人はこの足糸を取らなければならない。何しろ硬いタンパク質だから筋のようで食べるのには向いていない。

 近代科学が誕生して以来、人間は膨大な研究をして「ものとものを付ける」ということを試みてきた。「接着」は日常生活でも、工業的にも大変、重要だからそこに力を注いだのである。ご飯粒でつける、ヤマト糊を使う、セメダイン、ボンド、二液性のエポキシ接着剤、そしてアロンアルファと用途によって適当な接着剤が揃ってきた。

 約200年の研究の結果、接着の手順として理想的なのは次のようにしなければならないことが判った。
1) 接着表面に反応性のあるものが無いこと・・・接着してから材料を劣化させるから
2) 接着表面が汚れていないこと・・・汚れが本体と接着剤の間に入ってはがれるから
3) 接着表面が少しざらついていること・・・接着剤が凸凹に入り込んでアンカー効果が出るから
4) 接着する時に接着面の空気を追い出すこと・・凹部に接着剤が入らないから
5) 粘度の低いものが良い・・・凹部に接着剤が入るため
6) 少し空間がある方が良い・・・硬くなった後の歪みが少ないから
7) 最後に硬くした方が良い・・・接着面の材料としての性質が良くなるから
8) 構造は複雑な方が良い・・・接着面がさまざまだから

 良い接着をするためにはこのように8つもの条件がある。そのことは判っているのだが、これほど科学が進歩しても人工的に作られる接着剤や接着技術にはこの8つを全部、できるものは現れていない。アロンアルファはかなり理想的な接着剤だが、6)と8)が未達成である。

 だから、人間が接着したものは、その本来の接着強度の1000分の1程度ではないかと言われている。それほど性能はまだまだなのである。

 ところがムール貝はすごい!この8つを全部やっているのである。足を伸ばして表面を確かめ、掃除をし、吸盤を使って真空を作り、前駆体を出し、泡にして、固める。おまけにムール貝が出す接着用のタンパク質たるや、非常に複雑な構造をしている。

 私はこのムール貝の接着の様子と構造を見て、「人間は何のために科学の研究をしているのだ?」と疑問に思う。でも、そうかも知れない。人間が自然を観察し、それを科学という学問として進めるようになったのは僅か300年ほど前だ。それに比べて生物はカンブリア紀から数えても5億5000万年前、生物が誕生してから37億年も経つ。

 人間は論理的に考え、過去の蓄積を文字として残すと言う。だから効率的能率的であるとされる。一方、人間以外の生物は頭の働きが十分ではなく、文字もないので過去の知見を活かすことができない。全部、トライアンドエラーだから進歩が遅いとされる。

 でも、人間の頭脳にも創造性がない。人間の科学もほとんどがトライアンドエラーだ。そして人間が文字とノートで記録すれば、生物はDNAとコドンで記録する。書き換えの速度も微生物ならかなり速い。だから人間が新しく研究するよりも自然を参考にした方が良いのではないか?

 私が「自然に学ぶ」という研究を12年前に始めたのはそういう理由であった。研究は未熟で手探りで、茨(イバラ)の道だが、それでもいろいろ自然や伝統から教えてもらった。このムール貝の接着もその一つである。

 最後に脱線。

 フジツボや牡蠣、それにイガイが船の底について困る。水の抵抗が増加し、速度が落ち、無駄に燃料を食う。昔は人手で削り落としていたが、だんだんせちがらくなってそれもできない。そこで「付着防止剤」が研究され、トリブチルスズオキシド(TBTO)という化合物が開発された。

 とても優れた船底付着動物排除剤で、一時は多くの船が船底塗料にこのTBTOが入ったものを使った。そのうち、「TBTOが海の生物に害を与えるらしい」ということになり、環境運動が起こり、今では使用禁止になっている。「なんで、TBTOのようなものを使ったのか!」と騒いでいる。

 あまり品が良くないが「バカ!」と言いたくなる。付着する動物がなぜスズの化合物が塗られているとそこに行かないかというと「毒」だからである。またうっかり付着していると毒でやられるからである。船底に塗られた塗料をムール貝やフジツボが好きなら付着する。だから、付着防止剤は毒に決まっている。

 かつてミュラーが殺虫剤DDTを発見した。それを使うと害虫が駆除される。そして使いすぎたので昆虫がいなくなり、鳥は飢えてヒナが出来なくなった。それをレイチェル・カーソンが「春になっても鳥がなかない」と嘆き、「沈黙の春(Silent Spring)」を書いた。当たり前の話である。

 殺虫剤を作れば虫がいなくなる。船底に虫が付かない塗料を塗れば海洋生物には害になる。それは当たり前のことである。「だから「人工物」ではなく、「自然界にあるもの」で付着を防止するものを探そう」という研究があるが、良いのだろうか?

 もともと「人間が作ったもの」などはこの世にほとんど無い。人間は何もできない。人工物というのは「自然界には少量しかないが、それを一度に大量に作ったもの」であり、天然のもの以外ではないと考える方がよい。

 ムール貝の接着は私たちに多くのことを考えさせてくれる。彼らは筋肉の力を使わず、優れた接着という方法を編み出して、省エネルギーを達成し、餌を採ることができた。それが彼らが淘汰に勝ち抜いてきた理由である。人間はそれに比べてあまりにも短慮である。

おわり