― 焼き肉好きの人の胃袋 ―

 攻撃的な性格だからかも知れないが、私は焼き肉が好きだ。それも特に牛肉と白いご飯の組み合わせは何とも言えない。あれほど美味しいものが日本にあることは私の人生にとって幸福なことだ。(人間はつまらないことに幸福を感じる。それでよい。)

 学生と一緒にたらふく焼き肉を食べ、家に帰る。そして寝る段になると私はフト不安になる。
「??お腹がいっぱいだ。ということは私の胃袋にギッシリと牛肉が詰まっているに相違ない。私が寝ている間に消化してくれるとは思うが、私の胃袋はどうして牛肉と胃壁を区別するのだろうか??」

 なにしろお腹がいっぱいだからそんなことを考えている内にウトウトと眠ってしまい、朝起きてみると胃はすっきりしている。夜の内に胃の中の牛肉は消化されたらしい。

 不思議なことである。牛も哺乳動物、私も哺乳動物。牛の肉と私の肉は見かけだけではほとんど見分けがつかない。専門家でも生の肉なら見分けがつくかも知れないが、歯で噛んで粉々になった肉を見分けるのはできないだろう。

 なぜ、胃袋は「これは牛の肉だから消化しよう、これは自分の肉だから消化は止めよう」と区別をするのだろうか?なぜ、翌日の朝になると、自分の胃は消化されていないのに、胃の中にギッシリ詰まった牛肉だけは消化されているのだろうか?

 見かけで区別できなければ、DNAの分析をしなければならないが、私の胃がDNAの分析を出来ないのは当然である。胃の消化に関するこの昔からの難問は最近、すっかり解明された。まず、胃壁の断面の構造を見てみよう。

 胃壁の断面は、内側から「粘膜層」、その下に中間的な「粘膜下層」というのがあり、外側に胃を運動させる「筋肉層」がある。胃の外側は自分の体の中なので問題がなく、食べた牛肉を消化するのは胃の中だから図の上の方、粘膜の部分が食物の消化の最前線である。

 胃の粘膜には消化液の分泌細胞があり、そこからタンパク質を分解するペプシンと胃酸(塩酸)が分泌される。強力な消化剤であるペプシンと塩酸で牛肉を綺麗に消化する。

 最初から種明かしをすると、ペプシンも胃酸も牛肉と自分自身の胃壁を区別できない。同じ条件にすれば同じように消化する。そこで、主に2つの工夫を凝らして「環境の違い」を作り出す。

 まず第一には、胃液を分泌する方向を「牛肉方向」にするのである。つまり胃壁から直角に、そして勢いよく出す。自分が水道のホースをもって相手に水をかけると考えたらよい。もともと水で濡れれば自分も相手も同じだが、自分がホースをもって相手に対して放水すれば、相手だけが濡れて自分は濡れない。あの感じである。
 

 私は「自然に学ぶ」という研究をしているが、その第一歩として「生物の自己修復」を研究した。その時にこのような防御の方法を分類整理したのだが、ホースを相手の方に向けて自分は水がかからなくするような防御を「物理的防御」に分類した。

 第二に、図には書いていないが、粘膜の上(胃の中側)に「粘液層」を作る。粘膜の中の粘液細胞からどんどん「粘液」を出す。この粘液は粘液細胞のノズルから出ると左右に広がって粘膜を覆う。つまり水道のホースで相手に水をかける時に、自分は乾いたバスタオルを体に巻いておくようなものである。

 相手にかけた水の飛沫が自分に返ってきたら、そのバスタオルが自分を守ってくれる。胃壁の場合は粘液層の「粘液」が少しずつ流れ、それが胃壁を守る。もちろん粘液自体もやられていくが、液体だから次から次へと作って新しくノズルから供給すれば何とかなる。これが防御の第二弾であり、やはり「物理的防御」である。

 今から20年ほど前の1983年になってこの胃壁の粘液を住処にする細菌が発見された。有名な「ピロリ菌」である。この細菌はどういう訳か胃壁表面という戦いの最前線で生活することを希望したらしい。生物にとっては消化薬や塩酸が飛び交うもっとも危険な地域だが、そこが好きだ。人間で言えば好んで弾丸飛び交う戦場に住居を構えるようなものだから変わっている。

 ともかく胃壁の表面にスムースに粘液が流れなければならないのにそこにこの変な細菌が住居を構えるので、流れは滞るし、細菌が中和剤を作るのでさらに混乱する。防御網はピロリ菌の付近で破れ、突破される。だから胃壁の損傷・・たとえば胃潰瘍・・・などにピロリ菌は強敵なのである。

 胃液のホースを相手に向ける、飛沫は粘液の膜で防ぐという方法でともかく胃壁を何とか守っている。つまり、牛肉と人間の肉の区別はできないので、それはあきらめ、物理的空間的に守るのである。人間、できないことはできない。あきらめが肝心である。それが自分の希望にあわないからといってできないものはできない。次善の策を取るだけである。

 ところで、この二つの防御だけでは腹一杯食べた牛肉を消化する時の防御には不十分である。やはり胃壁近くまで牛肉が来るので、飛沫はかかるし粘液膜には「むら」がある。どうしても胃壁表面の粘液細胞は損傷して死ぬ。

 また強いお酒が好きな人は40%以上のアルコールを飲む。アルコールは分子だからどんどん胃壁の中に入っていって粘液細胞を傷つける。そこで、粘液細胞は戦いで消耗する兵士のように「補給」しなければならない。どんどん増殖して補う。だいたい、粘液細胞の平均寿命は5日程度である。

 この世の中は戦場である。生物同士は戦い、生物の中の消化器でも戦っている。平和主義者が「この世から戦争を無くしたい」と言う時には、「戦争」がどういう定義なのかをハッキリさせておかないといけない。

  人間にとっては人間同士の戦いだけが関心事かも知れないが、他の生物に取っては人間が一番、危険な生物であり、人間との戦いに勝たなければ自分が死ぬ。彼らの戦争は、種と命を守るための聖なる戦いなのである。

 生物で前線に立つ細胞はいつも危険を伴い、消耗が早く、そして廃棄物になる。動物の皮膚は紫外線や外部からの攻撃に対して身を守る。だから激しく劣化するので、定期的に交換する。それが「垢(あか)」である。

 樹木の皮は、樹木を外界から守る。そのために樹木になる細胞は生まれた瞬間から早く死ぬ準備をしてコルク層になり、さらに完全に死んで樹皮になる。死んだ自分の体は樹木の内側の細胞が表面に押し出してくれる。死して表面に出、そして自ら防塁になるのである。

 胃壁の粘液細胞も、動物の皮膚の細胞も、そして樹木の皮も、戦い、劣化し、そして捨てられる。「生物はなぜ活動できるのか?」という質問には私は次のように答える。

「材料が劣化し、エネルギーを消耗するから」

 生きとし生けるもの、そして生命の無いもの・・・すべてのものは「物とエネルギー」を捨てることによって活動を得る。生きていることとはそういうものであり、自然現象とはだから美しいのである。人間が自分の欲得で「一度、使った物はもう一度、使おう」などと考えてもそれは自然が許してくれない。
(このページでは「海外医療基金」のデータを一部参考にさせていただきました。)

おわり