― 少子化と教育基本法第一条 ―

 日本の将来に何が大切かと言って、次世代を担う人ほど大事なものはない。女性が出産することが少なくなり、日本の人口が減る・・・減ると年金が困る・・・などとつまらないことを心配するのは、将来の日本を軽んじるような気がする。

 大切なのは次世代の国民の「数」ではなく「質」ではないだろうか?国民の数が減って、少人数教育が出来るようになれば、質は向上し、日本の将来は明るくなる。環境という点でも現在の日本の人口密は少し多い。フィンランドまでは行かなくても、せめて日本の人口が5000万人程度になればすべては好転するだろう。

 私は教育職にある。そしていつも気になっているのは、私たち教育職がその教育の中心として据える必要のあること、つまり教育基本法第一条、「教育の目的」が教育現場で軽んじられていることである。

 

教育基本法第一条 [教育目的] 

「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

 教育の第一の目的は人格の完成である。より具体的には、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神の満ちた、心身共に健康な・・・ということになる。「人格」の内容は少し抽象的なので、まず具体的に表現されていることと現代の大学教育を比較してみたい。

 大学では学問を教える。そして学問は「真理」を探求するものだから、学問を教えることを通じて「真理を愛する心」を育てることができる。その点では大学教育は正しいのだが、現実に大学で行われている学問の教育は職業的な内容を持っており、必ずしも真理を愛する心を育てるための学問を教えているとは言えない。

 「正義を愛する心」を育てる教育は大学では皆無である。そして高等学校を卒業している学生が正義を愛する心を持っているかというとこれも寂しい。学生は隙あらば講義をさぼり、講義中でも私語をし、時には友達のレポートを写して提出してくる。およそ正義とはかけ離れている。

 せめて日本海軍の江田島で教えていた「五省」でも取り入れたい。(五省はこのホームページの随筆(五省の呪文)に載せてあります。ご参考になってください。)

 「個人の価値を尊ぶ」教育はある程度、行われている。学生の自主性を育てようとして先生は努力しておられる。しかし、他人を尊重することが大切という教育が行われているかというとこれも落第である。学生はとてもわがままで、ほとんど自分のことしか念頭にない。でもそれは「個人の価値を尊び、他人を尊重する」という具体的教育が行われないことが原因している。

 「勤労と責任を重んじる教育」もなされていない。確かに大学は職業教育を行っており、法学部を出れば法曹関係や企業の法務へ、経済学部を出れば企業経営に、工学部では技術者を養成する。しかし、その教育課程で勤労の大切さを学ばせたり、まして責任を重んじる教育など見たことがない。

逆に「ほとんど大学に来ない怠惰な学生でも試験の成績が良ければ卒業させる」「研究室に配属されてもほとんど共通的なことに注意を払わず、責任を果たすことは卒業要件に入っていない」というのが現状である。

 もし、私が「この学生は勤労と責任を重んじないから」という理由で卒業論文に署名しなかったら、私は学生か学生の親に訴えられるだろう。もともと勤労と責任を重んじる教育していないのに、その成果が出ないからと言って留年させるのは不適切である。

 「自主的精神」も怪しい。学生は自己を主張したり、自分を防御することはできるが、「なぜ、この学科を選んだのか?」と聞くと、「高校の先生が行けと言ったから」という返事が返ってくる。偏差値にあわせて生徒の進路を決めるらしい。

 「心身共に健康」となるとさらに怪しい。すでに大学での「体育、スポーツ」の授業はほぼ崩壊している。野球のイチローや松井、サッカーの中田、ゴルフの宮里などスポーツは盛んでスター選手は多くいるが、それはショー化したスポーツが盛んになっただけで、若者の運動能力は落ちている。

 体育の時間を増やし、コンピュータやエスカレータの出現によって半分「廃人」の体を持っている若者に「自分の体」を実感させたい。

 身体の健康が達成されていないのだから、心の健康が保たれるはずもない。「美しい心は逞しい体に支えられる」ものであり、体がひ弱では問題外である。と言って学生に「早朝、乾布摩擦」などを課したら直ちに訴えられる。

 日本の大学は教育をする場所である。そして教育は教育基本法に基づかなければならない。もし学生が「私は人格の完成も、正義を愛する心も、そのほか、教育基本法に定めるような力はつけたくなんかありません。技術を身につけて職業につければ良いのです。」という希望なら職業学校を紹介する方がよい。日本の大学は文部科学省管轄で、「教育基本法」の下にある「学校教育法」で作られた学校だからだ。

 日本の大学教育がこれほど教育基本法と乖離した原因は、社会の拝金傾向から来ていると考えている。本来、人格の優れた人間が社会の上位にあり、お金持ちはやや軽蔑されるのが適当である。でも現在はお金さえ持っていれば尊敬される。お金が能力の尺度になっているからである。

 現代の社会に適合する人材を育成するなら教育基本法の第一条は改訂したらどうだろうか?

提案・・新しい教育基本法第一条【平成の日本の大学の教育目的】
「教育は、お金を儲けることができる人材を作ること目指し、競争力の強い国家および能力主義の社会の形成者として、具体的な知識を有してそれを武器に戦い、できるだけ働かずに儲けて責任逃れをすることができ、自己を主張し自己の権益を守ることのできる、体の機能は機械に委ね頭脳だけが優れた国民の育成を期して行わなければならない」

 皮肉でも何でもない。東大を頂点とした日本の大学はすべて、上記の「修正第一条」に基づいて教育を行っているからである。もちろん、このような教育を行っているのは大学人の責任である。社会がどうであれ、大学こそは自らの見識に基づいて教育基本法の思想によった素晴らしい国民を育成することができるのであり、社会に迎合する必要は無いのである。

 でも現在の大学にそれだけの力を期待しても無理だろう。あまりにも社会とのつながりが深くなり、あまりにも学問それ自体から離れ、私たち大学人はすでに自らの価値観を作り、たとえそれによって貧乏になってもその覚悟を持つことが出来ないからである。

 教育基本法を大学教育に実現するには私たち大学人が再教育を受けなければならないが、先生がいない。

おわり