― 敵国降伏 ―


 博多の箱崎宮の桜門、別名「伏敵門」にかかっているこのおどろおどろしい金縁の額は、畏れ多くも亀山上皇の手によるものである。箱崎宮になぜ「敵国降伏」なる額が掲げられているのだろうか?

 箱崎宮は、少し前まで「筥崎宮(これも「はこざきぐう」と読む)」という字を使っていたが、鎌倉時代の2度の元寇で焼き払われた。それを再建するときに亀山上皇が「敵国降伏」と書いたのである。

  1274年10月3日,中国・朝鮮連合軍は軍船900隻に分乗して月浦を発し,10月5日払暁対馬の沖に姿を見せた.たちまち対馬・壱岐などの日本軍守備隊を全滅させ、多数の住民を殺害して、19日には博多沖に姿を現した。

 中国・朝鮮連合軍による日本攻撃を一般的には元寇と呼んでいるが、すでにモンゴルに国があったわけではなく、中国の元(げん)であり、朝鮮は高麗(こうらい)だった。だから元・高麗連合軍といっても良い。

 20日には博多は戦場となり、箱崎宮も焼き払われた。夜になっていったん中国朝鮮連合軍は海上の船に引き上げたが、次の日に攻撃が行われれば、日本軍は総崩れになっていたと言われる。

 その時だった、
「夜中ニ白張装束之人三十人筥崎ヨリ矢先ヲ調テ射ケルガ其事カウ震敷身毛余立テ恐シク家々ノ燃ル焔ノ海ノ面ニ移レルヲ海中ヨリ猛火燃出ルト見成テ蒙古共肝心ヲ迷ハシテ我先ニ逃ントハ後ニ生取レタル日本人帰レルト又彼蒙古カ一同ニ申上ハ更ニ誤不可有.」

 (現代訳)
 夜になると箱崎宮から30人ばかりの白装束の神官が威儀を正して現れ、弓矢を連合軍の船をめがけて射った。折しも連合軍が放った火で博多の街は大火になっており、空も海もその炎が反射して真っ赤だった。緋のような背景に白い神官の矢。連合軍兵士はその恐ろしさに身震いをした。

中国・朝鮮連合軍の将校も兵士も、夜の海の不気味さに慣れていない。あたかも嵐模様でゴーゴーとなる海,白装束の怪人,そしてこちらに向かって射る矢に身の毛もよだつほどに恐怖を覚えた.

後に捕虜となったモンゴル兵の記録によると,船の上の兵はその恐怖で我先に逃げたい,陸なら逃げられるが海の上なので逃げることもできない,恐怖は恐怖を呼び,戦うどころではなかったと記録されている。

 歴史上、中国と朝鮮が日本を攻めたのが2回。最初が奈良時代で次がこの文永の役と弘安の役である。結果として中国も朝鮮も日本を占領できなかったけれど、それは結果であって占領するつもりで攻めてきたのは間違いない。もし占領されていれば日本は甚大な損害を受けただろう。

 歴史上、日本が中国と朝鮮を攻めたのが3回。最初が日本が朝鮮の百済を助けるために出兵した白村江(はくすきのえ)の戦い。2回目が豊臣秀吉の朝鮮戦役、最後に、日清戦争から太平洋戦争までである。白村江も朝鮮戦役も日本軍は負けて帰ってきた。3度目の時、日本軍は朝鮮を占領し、中国の奥地へ進出した。結果としては長期に領土化することは出来なかったが、短い期間でも両国に大きな損害を与えた。

 その意味では次回は中国・朝鮮が日本を攻める順番になる。現在、北朝鮮のミサイルは日本を射程に入れていて、中国は日本に敵視政策をとっている。日本人としてはまだ箱崎宮の「敵国降伏」が必要な要素がある。

 歴史認識はともかく、白装束の神官が放った矢が中国・朝鮮連合軍の兵士の戦闘精神を鈍らせ、退却したというのは史実と違うかも知れない。しかし、この話は神様の手をお借りしてでも日本の国を守りたいという切実な心が元になっている。そして天皇や上皇などの方は日本の統合の象徴であり、日本人を他国の侵略から守る中心的存在だから、亀山上皇が書かれたこの額は頷ける。

 敵国が存在することは哀しい。その敵国が侵略してくるのはさらに哀しい。でもそれはつい最近まで世界の常識だったし、今でもアメリカは遠くアフガニスタンやイラクに軍隊を出して占領している。そして、日本はそれを支持している。

 だから日本は博多に神社を置き、「敵国降伏」を願う。敵国を降伏させるに当たり、軍事を充実させるより神社に額を掲げる方が平和的である。

おわり