― ハウステンボス考 ―

 ヨーロッパ近世絵画に描かれそうなこの美しい風景は、日本の長崎県佐世保市にあるハウステンボス。日本の多くの遊園地が喧噪な場所であり、キャラクターをあしらったおみやげ屋や商品の当たる「クジ」が必須なのに比べて、ハウステンボスは静かで美しい。


(2000年のハウステンボス。著者撮影)

 1992年3月25日 ハウステンボスはオープンし、2003年2月26日、会社更生法の適用を申請して倒産した。長い間、楽しむことができるようにと作られたインフラストラクチャーはわずか11年でその役目を終わることになる。

ハウステンボスはオランダ語で”Huis Ten Bosch”. 日本語に訳すると「森の家」という意味である。太平洋戦争後、朝鮮戦争を経て、高度成長、列島改造路線を走り、ひたすら前へ前へと進んできた日本は1989年にバブルの崩壊を経験し、「ゆっくり生活」へと切り替えるかに見えた。

 ハウステンボスは長崎県佐世保市にあったが、その原型はもともと同じ長崎県の西海町にあった「オランダ村」を移転・拡大したものである。そしてハウステンボス建設の歴史とその没落は、高度成長以後の日本の社会とその風土を象徴している。

 ハウステンボスの土地は長崎県が工業団地として造成した。造成に使用した瓦礫(がれき)は最低の品質のものであり、美しい長崎県西北部の景観を壊す、それは無惨な埋め立てだったのである。日本の高度成長と列島改造はそこに美的感覚を持った住民が住むのではなく、ゴミためのウジ虫でも棲むような感覚で土地が作られていき、ここもその一例だった。

 当時の通産省や自治体が行う公共事業は、常に時代遅れだった。「新しい事業、成功する事業」というのは審議会を開き、議会で議論し、計画に10年かかって合意を得て進めるようなものではない。将来を見通すことのできる少数の経営者が独断と偏見で決断し、リスクを背負って始めるものである。

 通産省が主導した苫小牧東、下北など日本の大型工業基地計画は地元に多くの負債を残して、その大半が沈没したのも道理である。「草も生えない」と言われ、荒れ果てた埋め立て地だったハウステンボスの前身はこのようなものであった。

 そして数人の偉人によって、埋め立て費用を倍にすると言われた土壌改良工事が行われ、40万本の樹木と30万の花が植えられた。・・・ハウステンボスは「人と自然が共存する新しい街」「自然の息づかいを肌で感じることのできる新しい空間」をコンセプトとして設計されたのである。

 その設計者の一人に池田武邦がいる。

 太平洋戦争末期、大日本帝国海軍旗艦の「大和」は沖縄に向かって特攻出撃を敢行した。すでに制空権はアメリカ軍にあり、爆撃・雷撃によって大和が沖縄に到達できないとされたが、誇り高き大日本帝国海軍の旗艦が戦場で死ぬ場所を得ず、俘虜の辱めを受けることは頷き得なかった。

 池田武邦は戦艦大和を護衛する駆逐艦に乗り組んでいた。そして特攻は失敗し艦は沈没、池田は救助されて佐世保に帰還した。東京に帰った池田はそこで一面の焼け野原、その中でドラム缶の風呂に入る復員兵を目にして建築の道に進んだ。後に日本設計社長。日本で初めての高層の「霞ヶ関ビル」の設計者である。

 彼もまた高度成長・列島改造の渦中でその壮年期を発展に尽くし、高層ビルの池田と言われた。でも、彼の作品に続いて建設された新宿の高層ビル群が稼働し始めてすぐ、彼の鋭い感性は巨大な幻想の産物である高層ビルの建ち並ぶ都市と共存できなくなった。

 その後の池田武邦はハウステンボスを手がけ、秋田の寒村で自然にとけ込む住宅に熱を上げる。その姿は戦後復興から高度成長へ、そして自然回帰へとめまぐるしく変化した日本の戦後を象徴しているようである。

開業から4年を経た1996年にはハウステンボスの入場者数は400万人を突破した。しかし、入場者数はそれを最後に下降線を辿り、再び400万人になることなく倒産した。ハウステンボスの後半は集客に韓国・中国を当てにし、倒産後は山本ルンルン原作のマシュマロ通信とのタイアップでマシュマロタウンとして運営されている。

 日本の観光施設に中国や韓国の人に来ていただくことは結構なことである。また長崎県は日本の最西端に当たり、歴史的にも大陸との行き来が普通の土地柄である。大阪や東京より海を隔てて向かい合っている中国や韓国の方に親しみがあっても不思議ではない。

 でも、ハウステンボスが中国や韓国の観光客を当てにし出した頃、施設はすでに死んだのである。命あるものも、無生物もそれを形作る「物質」よりそこに宿る魂や概念が優先する。それが無ければ物質としての存在価値がない。その意味ではハウステンボスは「高度成長を成功させ、物質に恵まれた日本人が自然に親しみ、美しい風景の中でしばしの時間を過ごすことができる施設」であった。だから、まずは日本人が利用しなければならない。

 1989年、日本人はバブルがはじけて環境に目覚め、リサイクルを推進し、自然との共存を説いた。多くの法律や天下り用の法人ができ、テレビは毎日のように環境の大切さを強調している。でも、その象徴として作られたハウステンボスは日本人からそっぽを向かれて倒産している。どうしてこのように矛盾した状態ができるのだろうか?

 自然と共存し、自然の息づかいを感じたい・・・バブルを経験した日本人の多くがもった切実な願望であった。そのためには「ゆっくりした心豊かな時間」が必要だった。その反対に、高度成長期の「せちがらい目標」や「仲間同士の競争」、「一分刻みのスケジュール」、「効率第一主義」からは逃れたいと希望した。

 でも、それは真実ではない。

 日本人は素晴らしい個性を持っているけれど、同時に非常に複雑で多層な心の構造を有している。かつて日本の産業が世界的になり、多くの国とのつきあいが始まった時、ストレートで論理を重んじる白人社会から驚きの目で見られたものの一つ「建前と本音」にそれを見ることができる。

 当時、日本人の特性を知らない白人男性が日本人に「Aが良いですか?」と聞くと、相手の日本人は「Aが良い」と答える。それならとAを持って行くと、さっき言ったことを忘れたように「Aは要りません」と答える。白人男性はあまりのことにビックリして日本人に不信感を持つようになった。

 このような場合の日本人の返事は、「せっかく外国の方がAが良いかと聞いているのだから、本当はAが良いわけでもないが、一応、Aが良いと言っておこう。」、または「全体の雰囲気からAが良いと答えた方が無難だ。確かにAは良いのだが、まだ、自分はAを買いたくはない。誰かお金持ちが買うだろう。ともかくここはAと言っておこう。」ということから出ている。

 日本人のこのような複雑な反応は世界でも日本だけだと思う。それほど日本人は「建前と本音」が違う。そして更に複雑なことには「建前」は完全に建前なのではなく、「建前」は「本音」なのだが、実現が不可能な「本音」であったり、そこまでやる気のない「本音」なのである。心の底からしたいと思っている「建前」だからやっかいである。「したい」けれど「したくない」という高度で複雑な心理が日本人に共通に見られる。

 ハウステンボスはその犠牲となった。
「美しいところでゆっくりしたい」
というのは日本人の本音である。そしてそれを心の底から望んでいる。でも、
「美しいところでゆっくりする余裕はない」
というのも日本人の本音であるので、最初の「本音」は「建前」になる。

では「余裕があれば」「したい」のかというとそうでもない。「したい」のは「したい」のだが、もっと突き詰めると「したくない」のであり、「できない」とか「余裕がない」というのも本音ではなく建前である。

 なぜ「したい」にの「したくない」のかと聞くと「お金がない」と答える。それではお金がないかというと、日本人は世界でトップクラスの収入と世界でダントツの貯蓄がある。個人資産は実に1000兆円とも言われる。諸外国と比較して見ると日本人が「お金がない」というのは全く理解できない。

 でも、次のことは日本人にとって同時に真実である。
「ハウステンボスのような美しいところでノンビリと過ごしたい。でも過ごしたくない」

 2002年秋。私は断末魔のハウステンボスを横に見ながら、タクシーの運転手にこう話しかけた。
著者 :「運転手さん。あんなに綺麗なところなのに、無くなるのはもったいないね。」
運転手:「そうですね。せめてカジノでもあったらね。」

 世界の民族は気質という点で二つに分かれると言う。一つはまじめで鬱(ウツ)になりやすい民族。一つはいい加減で陽気な民族。日本は典型的な前者の民族であり、このような民族は「余暇には静かな方向」を望まないという。もともと自分の心は沈みやすいから、自由な時間にはせめて陽気になろうとする。

 行くのなら繁華街、飲むならお酒・・・というのが「鬱民族」の嗜好であるから、日本人が「自然と共存したい」というのはウソではないが実行しない。日本人はまじめで寂しいから騒がしいところに行く。もともとお金があるのだから、騒がしいなら払う。そこにハウステンボスの倒産がある。

おわり