―式王子と日本人―

 日本の昔、大麻を漉いて作られる和紙で様々なものが作られていました。写真はその中でも土佐の物部村にて「式王子」と呼ばれている仕掛けで、幣(ぬさ)の一つです。村と村、或いは人里と神域、或いは鬼のいる場所などの境界に置かれ、境を示していました。

ある旅人がたまたまこの村に紛れ込んで山の中で幣(ぬさ)に出会うと、その旅人はその先に行くことができませんでした。鉄条網のようにトゲもなくベルリンの壁のように聳えてもいないのですが、日本人は決してこの幣を越えて進めなかったのです。

 これは、神社の祭壇の前にも祓幣が置かれているのですが、日本では「白」く「素」であるものに神が宿っていると考えられていたからです。そして、邪な心を持っていると幣を見て恐れおののき、神社に入るのが億劫になったものでした。

かつて日本中いたる所にごく普通に見られた御幣(ごへい)。それは基本的にある「境」を作りだしているものでした。村の境に懸けられた御幣や縄は結界を表し、村の中に住む者にはその先には鬼や妖怪や魔物が住み着いていると警告し、村の安全を願い、村の外へは警戒を呼びかけるのです。それを超えられるのは、邪心のない神のような「まれびと」だけだったのです。

アイヌにも同じような風習がありました。ある川の畔に住んでいるアイヌの集落では、川の水源から河口までの間のちょうど中間に「境」を設け、それから上流には決して入ろうとはしませんでした。それは「定住、狩猟」という限定的な物質供給系のもとで生活をしていたアイヌが持続性社会のために作り出した知恵だったのです。

でも、その「境」に鉄条網や頑丈な柵は設けられていませんでした。人はなぜ、その境を超えられなかったのか?現代では考えられません。現代は「自分が正しいと思ったことは何でもやって良い」という原則がありますが、この世の中は非常に複雑なので、とても一人の人間が正しいか間違っているかを考えることはできません。そこで長い伝統の上にたってそれまでの経験や知恵を「しきたり」「たたり」などとして表現していたのです。

 そんな文化の中から「してはいけないことはしない」という世界でも希な行動規範が日本に誕生しました。人の行動を制限するのに、鍵をかけて玄関からの進入を防いだり、金庫の中にお金を隠したり、若い女性がカーテンを引いて着替えをしたりする必要はありませんでした。

 玄関や窓に鍵がなくても「入っていけないところには入らない」。お金が番台にあっても「自分のものではないお金は自分のものにしてはいけない」。庭で女将さんが行水をしていたり、襖の一つ向こうで若い女性が着替えをしていても「見てはいけないものは見ない」。それが日本の文化でした。

 これほど若者の行動が荒れ、自分だけを主張するようになった時代でも、日本の若者には「してはいけないことをしない」という文化は脈々と残っています。この文化がどれほど大切なものであり、日本のすばらしい「環境」を作り出しているか、私たちはもう一度考え、家庭での生活、学校での指導に活かさなければならないと私は思っています。

 和紙でできた白い幣があるだけ・・・その向こうにどんなに欲しいものがあっても、足を踏み出さない勇気をもう一度、思い出したいものです。

おわり