―姉歯マンション事件と専門家―

 姉歯一級建築士が、設計を依頼したところからの圧力で鉄筋を少なくしたマンションを多数、設計した。建設されたマンションは震度5以上の地震が来ると倒壊する可能性があるとされている。日本では、そして特に最近では東海地震などの巨大地震が近く来ることが予想されている。

 住宅というのは1,2年で終わるものではない。マンションを買った多くの人は30年近いローンを組んでいる。だから30年の間、そのマンションに住むことになる。そして震度5以上の地震が30年の間に来れば確実に死ぬ。必ず死ぬマンションに住んでいる人たちの心はどんなものだろうか。

 建築に関わった人は姉歯一級建築士ばかりではない。依頼主、建設会社、検査機関、役所、そして建築確認申請、中間検査、完成検査などはどうなっていたのだろうか?これらのことは次第に明らかになっていくだろうが、まず姉歯一級建築士と専門家というキーワードで考えてみたいと思う。

 専門家というものは以下の3つの要件を持ち行動する人を言う。
1) 普遍的法則に従うこと
2) 長期間、高度な鍛錬をすること
3) 不特定多数に対して責任を持つこと
である。

 具体的な専門家として、医師と一級建築士を取り上げてみたい。医師は医学、建築士は建築学という普遍的法則に従っている。そしてその法則の中心には、命と福利がある。医師は命を救うという心棒があり、医学という道具を使う。一級建築士は建築物に住む人の幸福を願って建築学という道具を使う。

 医師も一級建築士も長期間、高度な鍛錬をする。医師は6年間の大学教育を受け、その後、インターンなどの実地訓練を受ける。一級建築士はそれほどでもないが、それでも厳しい国家試験に合格し、経験を積んで大きな建築物の設計を担当する。

 社会は医師や一級建築士を信用する。それは高度な学問を学び「偉い」からである。そしてその人達がその分野では最高の知識と経験を持っているのだから、信用するしかないとも言えるのである。

 問題は第三の要件である。「不特定多数」とは何なのだろうか?

 たとえば医師がある病院に勤務しているとしよう。いわゆる勤務医と言われるお医者さん。この先生がお勤めの病院は大きいのに、患者さんが少ない。機械の維持費もかさむし、看護師も大勢抱えている。病院の経営陣は赤字続きでどうしようもないので、この先生に相談する。

経営者 「先生、経営が思わしくないので、何とか治療で稼いでもらいたいのですが」
医師  「何をしたら良いのですか?」
経営者 「たとえば、すぐ治るような治療をしないとか、高めの薬を使うとか・・・そこを何とか・・・」

 この会話が普通の製造会社ならさほどおかしくはない。たとえばビデオデッキを作っている会社が、デッキの評判は良いのだが、もう一つ売り上げが伸びない。そこで、
上司  「デッキの音質は良いんだが、長持ちしすぎる。なんとかならんか」
技術者 「それではドライブのところの材質を落としましょうか?」
上司  「そうしてくれ。少し寿命が短くならないとどうにもならない。会社が潰れては君の技術も活きないからな」

 製造会社では普段から、あまり寿命の長い製品は歓迎されない。ほどほどに壊れて次のものを買ってくれないと困るのである。だから、こんな会話があっても不思議ではない。でも医師の場合は困る。ちゃんと診察して治療してくれれば2,3日で直るのに、わざと効かない治療をしてもらっては困るのである。そんな医師は「人でなし!」「オニ!」と罵倒される。

 サラリーマンでは普通に話されるような会話が医師には許されないのだろうか?それは医師が「専門家」として、「雇い主」ではなく「自分の職務」に忠実であることを求められるからであり、「不特定多数に奉仕する存在」だからである。医師の場合、不特定多数とは患者のことである。

 一級建築士も同じで、建築物の設計に当たっては「不特定多数」に対して奉仕しなければならず、マンションの場合の不特定多数とはそこに住む人と近くを通る人である。医師が患者の命を大切にするように、一級建築士はマンションに住む人の幸福を第一に考えなければならない。

 決して「注文主」の希望に添ってはいけないのである。

 姉歯一級建築士は、注文主の要望を入れ、マンションすむ人の幸福を奪ったという点で、専門家ではなく、従って一級建築士でもない。プロではないのだ。

 でも、姉歯一級建築士だけが専門家ではないとも言えない。実は「日本の一級建築士は専門家ではない」ということはよく言われることである。日本の一級建築士は日本の国内では建築物を設計することができるが、国際的にはほとんど認められていない。日本の中の建設業だけに通じる、かつての農協のようなものなのである。

 なぜか?それは日本の町並みを見れば分かる。一級建築士は専門家であり、不特定多数に奉仕する。従って、あるビルの建築の設計を担当するとき、「お金を払ってくれる人」に忠実なのではなく、そのビルを使う人、そのビルの近くを通る人に忠実でなければならない。

 ビルの近くを通る人とは通行人であり、彼らにとってはガラスが落ちてこないことや、ビルが町全体の景観と調和していることである。日本のビルは隣のビルの景観と調和して作られることはない。それは一級建築士が専門家ではないからである。

 日本の一級建築士は「建物の注文主」に忠実である。またゼネコンに勤めている一級建築士は雇用主に忠実である。だから、専門家ではない。専門家でなければ社会は信用せず、一級建築士の設計したものをいちいち疑わなければならない。上司の指示にしたがって治らない薬を出す医師のようなものであるから、信用はできない。

 ところで専門家には、先に示した3つの要件の他に、
「専門家がその地位と利害を守る集団を形成する」
ということも特徴である。

 例えば、日本医師会がこの集団に当たるが、医師の地位と利害を守る。日本弁護士会も同じ専門家集団である。それに比べれば日本建築士会というのはあまり知名度がないし、日本建築学会との関係も知られていない。一級建築士が社会的に医師ほどには専門家として成熟していないことも示している。

 専門家集団は社会に対して専門家の地位を確立し、その利害を守る。たとえば医師会の武見会長が医師の報酬や税金についての基本的な仕組みを変えようとしたのはその一例である。日本医師会は医師の立場と権利を守るとともに、医師が悪いことをしたら除名する。医師は医師会という専門集団に所属していないと、その専門性を社会で発揮できないことになる。

 姉歯一級建築士の事件があった場合、姉歯さんがテレビの矢面にでるのではなく、一級建築士会が代弁するぐらいになると本当の専門家集団として社会が認知することになると思われる。医師も建築士も国家試験を通った人だから専門家なのではなく、専門家集団を作っていて初めて専門家である。

おわり