キスの味とダイオキシン

 昔、ソ連邦に属していてソ連の崩壊と共に独立した「ウクライナ」と言う国がある。北海の沿岸に位置し、ロシアとしては南で土地も肥沃で、小麦はとれるし、石油は豊富、おまけにソ連時代の軍事基地があり原爆まで持っている。それでも日本にとってはあまりなじみの深い国ではなかったが、最近の大統領選挙の混乱で、マスコミの話題に乗るようになった。

それは、野党からの大統領候補ユシシェンコ氏が毒薬を盛られて顔が変わったこと、その理由が「ダイオキシン」のようだというスイスの病院の発表でさらに世界的な関心が集中している。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/afro-ocea/news/20041128k0000m030020000c.html
↑参考ページ(毎日新聞社のこの記事を報道するページ。
ユシシェンコ氏の毒の前後の写真が載っています)

 ウクライナは草原の広がるのんびりした雰囲気の国だが、もともと農村であったこと、ソ連時代に世界と隔絶した環境にあったことから、まだ「前近代的」な社会が残っている。現在の日本の常識から見ると、「問題点」が多く見られる。

 たとえば、共産党時代の名残で、権力が中央に集中してトップの同意なしにはなにも動かないということ、それが原因して経済活動を行うシステムも改善が進んでいない。そんな中で政権の腐敗は酷く、世界でもナイジェリアにつぐ腐敗国家とも言われている。前大統領、前首相など指導者が軒並み裁判やそれに準じる糾弾を受けている。

 権力の腐敗は民主化の遅れや司法、立法、行政の三権が分立していないことも原因しているが、全体として共産主義から民主国家に変化する過程で起こる問題・・・国民が「仕事をしなくても生活したい」という習慣からの脱皮が難しいこと・・・も大きい。

 それに加えて、旧共産国に共通したことだが、共産主義の間にすっかり国際競争力を失っているので、「自由化」をして国を開放すると安い外国製品にすっかりやられてしまう。つまり長い期間を考えれば、鎖国状態を続けているわけにはいかないから、貿易を自由化しなければならない。そうすると外国製品で国内の企業がつぶれて失業者がでる。・・・こんなことなら前の共産主義の方が良かった・・・ということになる。

 共産主義の時代の非能率のつけは何時かはウクライナの国民が支払わなければならない負債であるが、それはできるだけ先送りしたい。できれば自分の世代ではなく、子どもの世代にその負債の支払いを伸ばしたい・・・人間はそう思うのである。

 このようなウクライナの不安定な状態の中で、大統領選挙が行われた。候補者は、現首相と前首相。前首相は野党から出馬したユシシェンコ氏である。彼はなかなかの男前で選挙戦も有利と予想されていた。ところが選挙戦中盤に突然、急病になり、入院した。幸い、選挙戦を戦う程度には回復し、戦いに復帰したもののその顔相は一変していた。

 選挙は現首相が僅かな差で勝利したものの、大規模な不正が発覚し、ウクライナ社会は争乱状態になり、最高裁判所が選挙の大規模不正を認めて選挙のやり直しを命じた。そしてスイスの病院で診察を受けたユシシェンコ氏の血液から通常の6,000倍の濃度のダイオキシンが検出された。

 日本のテレビや新聞は、一斉に「ユシシェンコ氏、猛毒のダイオキシンで毒殺をはかられる」と報道された。非常に誤解を招きやすい、難しいニュースなので、解説を加えておきたい。

 ユシシェンコ氏の血液から通常の6,000倍の濃度のダイオキシンが検出されたのだから、自殺を企てることは考えられないので、おそらくはユシシェンコ氏に恨みを持つものか、政治的な理由で毒殺を測ったことは大いに考えられる。彼の顔の「ぶつぶつ」は塩素座そうと言われるニキビの酷いもので、このような酷いニキビは塩素系の毒物によって引き起こされることも判っている。

 だから「猛毒」のダイオキシンが原因している可能性もある。しかし、そのように考えるのは少し慌て者と言われても仕方がないかも知れない。この事件はもう少し奥が深い。

 このニュースを考える前に二つの仮定をおいてみよう。
1) ダイオキシンが無毒の場合
2) ダイオキシンが猛毒の場合

 まず考えやすい「ダイオキシンが猛毒」というのから取り組む。

 ユシシェンコ氏を亡き者にしようと企み、食事や飲み物のダイオキシンを入れる。ダイオキシンは無臭で無味なので、普通には気がつくことはない。ダイオキシンはかつて「青酸カリの6万倍の毒性」と言われたぐらいである。青酸カリがごく僅かで即死するぐらいだから、6万倍というと見えないぐらいの量で死ぬはずである。

 しかしユシシェンコ氏は通常の6,000倍の血中濃度になったが、一命は取り留め、顔にぶつぶつがでただけだった。顔は政治家にとって大切だが、命を失わなかったことから考えると、たとえダイオキシンが猛毒だったとしても、大した毒ではないことがわかる。醤油でも砂糖で6,000倍にもなったら死ぬ。だからダイオキシンは醤油より弱い毒性とも言える。

 次に第二の仮定「ダイオキシンは無毒」を考えてみよう。

 ユシシェンコ氏の顔が変わった。血液からダイオキシンが検出された・・・この二つのことからダイオキシンの有毒性が証明されたように感じるがトリックというのはいつもこのような形で姿を現す。ダイオキシンが無毒の場合、次のような経過でつじつまはあう。

 ユシシェンコ氏に盛られた毒物は「農薬」だった。日本でもかつてダイオキシン入りの農薬が使われていたように、ダイオキシンは普通、塩素系農薬の中に含まれる。そして農薬は人間が直接、飲んだり食べたりすれば有毒だ。ときどき、殺人にも使われる。ちなみにダイオキシンはこれまで殺人には使われていない。

 ユシシェンコ氏が飲んだとすると、その中にダイオキシンが含まれている可能性が高く、血中のダイオキシン類を測定すると観測される。つまり
「ユシシェンコ氏の顔を変えたのは農薬だったが、その農薬の中に含まれている無毒のダイオキシンの濃度を測定した」
ということの可能性が高いのである。

 科学とは難しいものである。一般の人が科学に弱いことを利用していままでもあくどいことをしてずいぶん儲けた人もいる。このケースが悪意があったかどうかは別にして、ユシシェンコ氏が病気したこと、血中からダイオキシンが検出されたことと、ダイオキシンが有毒であることは直接的な因果関係があるわけではないのである。

 ダイオキシンは気をつけていなければならないものの一つであるが、「猛毒」でないことは確かである。だからダイオキシンで人を殺すことは難しい。今度のユシシェンコ氏の事件はそれを端的に示している。日本のマスコミは「猛毒のダイオキシン」などと真実ではない報道を控えた方がよい。

 この深刻な話にはオチがある。

 ユシシェンコ氏が毒を盛られたその日、ユシシェンコ氏は彼の奥方とキスをした。そして奥方は普段には感じられない異様な「キスの味」がしたと言っている。

 ダイオキシンには味がない。

おわり