― 若年層の事件 (1) ― 幻想病と両価性精神病 ―

 数年前に小学生の男の子の殺人があった時、社会の多くの人が「命の大切さ」を教育しなければならないと主張していました。そして今、九州の小学生の女子児童が殺人をして、また同じ意見が出ています。

 でも、日本社会は子どもに命の大切さや自然の中の命を教え、体験できる機会を作ろうとしているのでしょうか?もちろん、心の隅ではそう思っていたり、行動を伴わないまでも子どもに命の大切さを教えたいと願っているかも知れません。

 日本の現実はまったく反対の方向へと進んでいます。私も含めた現代の日本人は「行動と思想」がまったく別の物であってもそれが気にならないという「幻想病」と「両価性病」にかかっています。

幻想症状とは、自分が盗人なのに、自分が盗人であることに気づかず、人に「盗んではいけない」と説教する症状で、現在のように日本人やアメリカ人が地球環境を破壊し資源の枯渇の主役であるのに、「地球環境を守れ」と人に言う症状です。

この症状については次の有名なマンガが良く示しています。自ら大型車に乗って二酸化炭素を出し、地球温暖化の原因と思われることをしているのに、なにもしていない農夫を叱っているという滑稽なマンガです。



もう一つの「両価性病」はやや医学的な用語ですが「価値観が異なる2つのことを同時に主張する」という症状で、例えばある人に「君が好きだ。嫌いだ」と同時にいったり、「君に金を貸している、借りている」と言ったりすることを言います。

 ある時には「環境に優しくしなければならないから倹約する」といい、給料が余ると「自分のお金だから使い切る」というような症状です。

 この2つの症状はかなり似ていて、ある意味では幻想的、ある面から見ると両価性的ということが多いものです。

 日本の飼い犬は年間40万匹が殺され、ネコは30万匹が保健所で処分されます。

 なぜ、こんなに多くのイヌやネコが毎年、処分されるかというと、簡単な理由で飼い、簡単に捨てるからです。

 たとえば「最近、体重が増えてきたから散歩をしよう」と決意したあるご婦人。さっそく、ペットショップにいってイヌを買います。できるだけ格好が良く「大安売り」という札のついたイヌを求めます。

 そのイヌと自分が相性が良さそうだということで選ぶのではなく、いかに自分がよく見えるか?いかに安いかでイヌを飼うのです。だからスタートから少し間違っています。

 かくしてイヌを家に連れてきて翌日から散歩を始めます。3日坊主とう言葉があるように数日は良いのですが、じきに散歩に飽きるか、どうも散歩をするとご近所の人と顔を合わせるのでイヤだとかいう理由で散歩を止めます。

 そうなると面倒になるのはイヌの世話。最初からイヌという生き物を飼っているという意識はないのですから、保健所に捨てに行きます。そのイヌは間もなく・・・普通1週間から2週間程度ですが・・・二酸化炭素で窒息死させられ、この世を去ります。

 保健所で最後を遂げるイヌやネコたちがガス室で最後を遂げるときの悲しげな声をお聞きになったことがあるでしょうか?それは胸を締め付けられるような瞬間です。

 長い間、人間とは友達だったイヌ。人間が危険なときには身を挺して助けてくれ、狩りの共をし、子ども達に夢を与えてくれたイヌ・・・そのイヌたちはいま悲惨な目に遭っています。ネコも同じです。すこしぶっきらぼうでイヌとは趣が違いますが、これも人間とは長い付き合いのネコも同じ運命にあっています。

 このような行動をしているのが日本の大人達です。おそらく、イヌやネコも子どもの方が大切にするかも知れません。

現在の日本の家庭ではほとんど家で飼っている動物が少なくなりました。昔は、一軒の家にイヌ、ネコ、ニワトリなどがいて、少し田舎の方に行きますと、ヤギ、ブタなども見られました。

 「近代化」「便利」の名の下にわたし達は動物をどんどん身の回りから排斥しています。家畜ばかりではありません。今や都会にはスズメ、ツバメ、ホオジロなどの野鳥や、イタチ、ヤモリのような小動物、蚊、ハエ、カナブンのような昆虫などつい最近までいた小動物はすべて絶滅してしまいました。

 新潟のトキの保護に熱を燃やす人たちも、スズメの保護にはほとんど関心を示しません。テレビで報道し、社会で騒がれた物だけを異常にかわいがり、保護しようとするのです。

 わたし達の身の回りにいなくなったのは家畜や小動物だけではありません。日本は国土の7割以上が森林で、その意味では豊かな国土を持っています。でも、その森林も効率だけを考えて杉を増やしたり、生物のことより人間の効率を考えた道路などの為に、動物にとってはほとんど死の森になっています。

 ある市に頼まれてその市の環境理論解析をしたことがあります。その市に太陽電池を敷いたら環境に良くなるという話がありましたが、現実に太陽電池を敷き詰めると絶滅する動物や植物がかなり出ることが明らかになりました。

 太陽電池は人間には優しいかも知れませんが、太陽の光を使っている動物や植物にとっては大切な住みかと太陽の光を奪うものです。それが環境に優しく、そして同時に環境とは「自然との共生」と言っているのですから、これは本当に「両価性症状」がかなり進んでいると言えるでしょう。

 一匹のアザラシ・・タマちゃん・・・が迷い込んで来たのを大騒ぎするのは決して命を大切にしているのではありません。すでに大都市では動物や植物は全滅状態にあり、「環境によい」という時には「人間100%」というのが基準になっています。すこしでも動物が糞をしたり、伝染病を持っていると直ちに処分するのが当然だという考えです。

 つい最近の鳥インフルエンザの騒動の時には、まだインフルエンザにかかっていないニワトリが何万羽と殺されました。ニワトリはもともと人間に卵を提供し、ある時には身を犠牲にして肉をわたし達の食糧としてくれます。その意味ではニワトリはわたし達の恩人でありますが、そのニワトリを「インフルエンザにかかるかも知れない。もしニワトリのインフルエンザが流行したら、人間にも感染するかもしれない」ということで、まだ1人の患者も出ていないのに、ニワトリを「予防的」に20万羽も処分したのです。

 それが毎日のようにテレビに写り、生きたまま袋に詰められるニワトリを小学生が見ていました。それで「命の大切さ」というのを、どう教えるのでしょうか?

 わたし達、地球上にすむ生物はお互いに依存し、お互い少しずつ危険な目に遭いながら生活をしています。その中で人間だけがという意識が強すぎること、それはやがて人間同士の命を軽んじることになるでしょう。

 このことは大きな問題を含んでいるので、私は数年前「二つの環境・・・命は続いている・・・」という本を大日本図書から出版しました。この本は中学生向けですが、環境、環境と言いながら、人間だけの特殊な社会を作り、人間以外の生物を遠ざけるようになった「寂しい、ひとりぼっちの人間」を示しました。

 両価性や幻想症状が急に社会に蔓延してきたのには、それなりの理由があると思います。私の研究室の学生によると「ブラックボックス化」が大きいのではないかということです。学生の書いた物をそのまま以下に転載しました。

・・・命の大切さについての論から少々ずれてしまいましたが、イヌやネコがものとしてとらえられてしまうような原因は、やはり保健所という組織にあるのかと、思います。

それはそれで、なくてはならない機能なので、なくしてしまえとは言えないのですが…

なので、原因としてはその組織によってブラックボックス化されてしまうところにあるのでしょう。現代社会には、効率的に物事を動かすがために、ブラックボックス化されてしまうようなことが結構あると思います。家から出た汚水がどのように海へ行くのかを実際に見た人なんて、そういないと思いますし、ごみ問題だってそうです。袋に入れて出したら誰かが回収していってくれます。

ブラックボックスによって両価性の片方はうまく隠されてしまう…
そんな事が起こっている気がします。・・・

 実感のない世界、五感で感じることができない社会、架空の中の人生、そのようなものはわたし達に人生の豊かさを味あわせてもくれません。もし毎日、1000匹も殺されるイヌが目の前で処分されるか、せめてテレビで放映されれば、たちまち「イヌを殺さない運動」が始まるでしょう。

 わたし達は本当に狭い窓から、感覚もなく社会をみているので、よけいに過激な意見や過激な行動に走るのです。

 わたし達は、自分たちが言っていることと行動していることをもう少し一致させた方が良いのではないでしょうか?