社会の間違いを企業がかぶる

 大企業の不祥事が続いている。古くは水銀中毒事件の日本窒素と昭和電工のような公害問題、森永乳業、大日本製薬、ミドリ十字、カネミオイルのような薬害やそれに近い問題があり、最近では、雪印乳業の食の安全、トヨタ自動車の試験不祥事、三菱自動車のクレーム隠し、東京電力のシュラウド、三井物産のODA海外援助汚職、名古屋鉄道の無免許運転隠蔽などが目立つ事件であろう。

 このような不祥事は不思議に、その業界の名門企業が多いことに驚く。日本窒素も昭和電工も名門化学会社、森永乳業、雪印乳業もその方面では超一流、それに三菱自動車、東京電力、三井物産、トヨタ自動車とならぶと、経団連の会長が決まらなくなるのではないかと心配になるほどの日本を代表する企業群である。

 所詮、企業は商人だ。昔から大商人には、悪徳商人が多かった。だから当然である。現在は、お金があり社会的地位も高く、時には政治に力を持ったり、大学を叱ることがあるぐらいだから、偉そうにしているが、その実、「お金を儲けられるなら何でもやる」という江戸時代の悪徳商人と違いない。しばらくはもう少し小さな顔をしていた方が良いのではないか?

 ところで、一連の不祥事の中で、日本窒素の水俣病、ミドリ十字の血液製剤、カネミオイルのPCB事件、東京電力のシュラウド事件、協和香料化学のアセトアルデヒド事件は、いずれも企業の不祥事として大々的に報道され、企業は社会的制裁を受けた。日本窒素はその後、チッソと名前を変えたがそれでもイメージの挽回が難しい。ではなく、社会のほうにヒズミがあり、それを一企業の責任とされた例である。

 意外に感じるだろう。何れの事件も「会社が悪い」と決まっているからである。でも、よく考えてみるとこれらの事件は社会的な冤罪と言えるもので、冤罪をもとにある特定の会社を罰してもそれによって事件の再発を防ぐことはできない。一つ一つの事件は複雑な内容を持っているが、それを簡単にまとめると、

1) 日本窒素(現在のチッソ)が起こした水俣病は、「水銀が健康障害を引き起こす」ということが判っていなかったのから、企業の不祥事ではない。事件が起ってから日本窒素が「自分の責任ではない」と頑張ったので、社会がそれに対して制裁を加え、その結果、不祥事となった例である。
この説明を聞いただけでは消化不良になると思うので、私のホームページに詳しく「チッソは責任がない」という論説を載せている。同じ例がミドリ十字、大日本製薬、カネミオイルで見られる。

「チッソに責任がないとはケシカラン!」と言われるが、もしこの事件を「チッソに責任なし」と正しく判定していれば、ミドリ十字、大日本製薬、カネミ油症事件は起らなかった。だから、水俣病をチッソの責任にした社会は、間接的ではあるが、その後のこの種の事件の「加害者」である。その意味で、運動家、新聞社は充分な注意が必要である。

2) カネミ油症事件は、ライスオイルという食用に使う油の製造の時に起った事件である。このプロセスは熱媒として塩素系の化合物を使っていたが、製品に問題があったわけではない。配管に穴があいて食用油に有害物質が混入した。
この事件では製造課長などが有罪となったが、たぶん、裁判官は化学プロセスが理解できなかったのか、あるいは社会に迎合したのか、いずれにしても間違った判決である。有罪となったカネミオイルの製造課長が熱媒の有害性やそれが製品に混じったらどのようなことになるのか、判るはずもない。もともと当時は塩素系化合物がニキビになるのかは学問的に判っていなかった。でも、社会的制裁でカネミオイルの製造責任者は罰せられた。
この問題も間違って処理をされているので、再発するはずである。昭和電工のトリプトファン事件はその一つである。
これ複雑な事件なので、これだけでは消化不良になると思われるので、近々、ホームページに論説を載せる予定である。

3) 東京電力のシュラウド事件はもともと危険がないものを社会的ヒステリーで事件に仕立て上げたものである。現代社会はあまりにも情報が多く、一人の人間が一つ一つのことを理解して適切な判断をすることができない。そこで、社会のあるものは誤解が支配したまま日常的に事実が進行している。それが何らかのことがキッカケで表面化すると「法規違反だ」「隠した」というようなことになるが、もともとそこで言う法規や「隠した」という元になっているものがおかしい。人間は理屈にあわないものを長く守ることはできない。
東京電力と同じケースが、協和香料化学のアセトアルデヒドの食品添加の問題である。この問題を「食品添加物として認められていないものを使用した」と簡単に言うと、まったく弁解の余地がないが、もともとアセトアルデヒドを食品添加物とすること自体に間違いがあり、ややこしい問題ではあるが、協和香料化学の方にはなんら過ちはなかったとしなければ、再発は防止できないものである。
この3番目の事件も、これだけ聞くと理解できないだろう。つまり社会的ヒステリーがある限度を超えているので、わたし達へ入る情報はすでにかなり間違っていて、それを修正するのが困難なところまで来ていることを示している。

 ここでは、この数件の事件が「企業の責任ではなく社会の責任だが、社会は自らが罰せされるのをいやがり、スケープゴートにその罪をかぶせた」という典型例であるということに留めておきたい。

 社会が本来、会社の責任ではないものを会社の責任として、たとえば賠償金を取ったり、経営者を止めさせたり、不買運動をしても、社会は事件の教訓を生かせない。

 水俣病は、
「人類が知らないことが原因で薬害が起こったとき、どうしたらよいか」
という議論をしていれば、ミドリ十字の事件は防ぐことができ、ずいぶん多くの患者さんが助かっただろう。

 カネミ油症事件は、
「化学プロセスを設計する時に何を注意しなければならないか」
という議論をしていれば、トリプトファン事件はおこらず、ずいぶん多くの人の命を救うことができただろう。

 協和香料化学の事件は、
「無意味な法的規制は、無意味な事件を起こす」
という議論をしていれば、東京電力のシュラウド事件は防ぐことができただろう。

 人間は、合理性を重んじる動物である。そもそも「・・・してはいけない!」などと叱るのも合理性を重んじるからであり、なんでもあり、なんでも良し、では企業倫理を守ることもできない。だから、倫理の事件が起こったら、その内容をよく考え、正確に理解しないといつまで経っても「最近は乱れている!」と嘆くことしかできなくなる。

 社会の判断の正確さが社会の安全を守る。政治をバカにすれば政治に裏切られると同じである。また、社会は社会を罰しない。だから社会は傲慢になる。その解決策も考えなければならないだろう。

 またこれを書いているときに三菱トラックバスという会社が事件を起こし、元会長ら7人が逮捕されるということが起こった。この事件は企業倫理、工学倫理として特別な例であり、それについては別途、整理を進めることにしたい。

 三菱自動車関係の事件の特徴は、
1) 三菱の特殊性:
三菱のパジェロの場合も、今回のトラックのハブの時も、「殺人になる可能性がある」ことがかなり明瞭に判っている段階で、「責任を運転手や整備にかぶせる」という計画性があることである。社会は「リコールの隠蔽」ということで理解しているがそうではない。
2) 自動車の特殊性:
自動車産業自体が年間8000名の犠牲者と100万件を超える事故を起こしながら、社会的にその無責任を追求されていないことも一因となっている。
3) 工学の専門性:
この事件は、設計担当者に権限とそれに伴う倫理が求められていないことによる。商売と技術が衝突したとき、社会的に安全な方向に進むためには、技術優先のシステムが必要とされる。