目指してはならないもの “法治国家”

 旧約聖書や新約聖書に出てくる「目には目を、歯には歯を」という原則は「やられたらやりかえしてよい」という意味に解釈されていて、今でも形は違うがほぼ同じ考え方で法律ができている。人を殺したら死刑だ!という感情がこれにあたる。

 聖書ができる1000年ほど前に作られたハンムラビ法典の第196・197条に「目には目を」という内容が書いてある。ハンムラビ法典は現存する法典の中では人類最古だが、単に古いということではメソポタミアのウルという都市にもっと古い法典があったと言われている。


(ハンムラビ法典。レプリカの写真)

 いずれしてもハンムラビ法典は紀元前1770年頃にでき、全部で3部からなり、条文は慣習法を成文化したもので282条もある。立派な法典だ。その後、中東やギリシャにその文化の源流を持つヨーロッパ文明に引き継がれ、「契約と法律」が一体となって発展してきた。

 一方、日本では大宝律令が最初の法律で701年だから、ハンムラビ法典から2400年も経っている。日本の文明はメソポタミアより遅いこともあるけれど「契約」という考え方がほとんど無い日本では社会生活を送るための法律はそれほど重要ではなく、日本最初の法律である「大宝律令」は日常の刑罰より、国家の体制を整えたという意味の方が強い。

 その後、日本でも少しずつ法律が整ってきたけれど、法治国家となったのは大日本帝国憲法ができた明治時代だろう。大日本帝国憲法の第23条には「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」とある。

 今では当たり前の条文も当時としては画期的なものであった。それは、「法律に書いていなければ逮捕されたり処罰を受けたりすることは無い」という法治国家の原則が示されているからだ。

 さらに戦後、日本国憲法が定められ、その第31条に「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」とさらに明確に書かれている。何の理由もなく、ただ社会が悪いからというので突然逮捕されたら不安で仕方がない。

 現在の日本では法律に定められていなくてもメディアがつるし上げをすることがあるが、まるで昔に戻ったような感じを受けることがある。法律に書かれていないことでは罰せられないというのは実に明快で良い。確かに「法治国家」というのは素晴らしい。

 でも法治国家の極端なケースが現代のアメリカだろう。何でもかんでも訴訟である。少し前のことだが、ドライブスルーのマクドナルドでコーヒーを買った年輩のご婦人が、そのコーヒーを自分でひざの上にこぼして火傷を負った。

 そのご婦人はすぐマクドナルドを相手にとって訴訟を起こし「コーヒーの温度が高過ぎるので自分は火傷を負ったのだ」と主張した。驚くことにこの訴訟はご婦人が勝ち、法外な賠償金を得たと報じられていた。

 当時はまだ日本が訴訟社会ではなかったので、この報道にはびっくりしたものである。その後、「自分が社会で成功しないのは、親が頭の悪い自分を生んだからだ」ということで親を訴えた若者もいた。ここまでくると日本の常識ではなんと言ったら良いか分からないほどである。

 こんな社会になると、訴訟は非常に多くなるので、アメリカの弁護士の数は日本の弁護士の50倍にもなる。人口あたりに直しても実に23倍である。法律的なものを弁護士がきちっと処理してくれるのは大変ありがたいが、弁護士の数は現在の日本ぐらいが丁度良いのではないか。

 日本人は日常の生活に法律をそれほど持ち込まなかった。金銭上の大きなトラブルや強盗、殺人といった時には法律や裁判が役に立ったが、普段の生活は「そんなことをしては祖先に申し訳ない」「恥ずかしいことはしない」という文化があったからである。

 トラブルというものは、それが解決しても解決しなくても、人生の時間をずいぶん無駄にし、気分も悪いものである。できればお互いに気をつけてトラブルを防ぐということに力を注ぐ方が良いことは間違いない。だから「法治国家の方が原始的な国家だ」ということもできる。

 だから、現在のように日本が単にアメリカの真似をするのではなく、日本の文化の中でどのくらい法律が必要なのか、すでに施行されている法律でもあまり使われないものを廃止した方が良いのではないかと疑ってみた方が良い。

 それでなくても、すでに法律の数はあまりに膨大で、六法全書の内容を知っている庶民はほとんどいない。もともと法律は、その国に住んでいる人のためにあるので、法律が国民に知られていないのなら、その法律は意味が無いといった方が良いのではないか。

 法律の代わりをするのは道徳や倫理だ。だから、日本国で生活する上で必要な道徳をこれから急いで議論して、繰り返し繰り返し学校で教えることによって、さらに無意味な法律を廃棄することができる。

 今から60年前。太平洋戦争に負けて怒り、自信を失った日本人は、日本の道徳をすべて捨てて学校で教えないようになったけれど、戦争のショックは和らいだのだから、日本の文化を復活させて法律によらない生活ができるように整備するチャンスだろう。

 私は、若い学生を教えていていつも思うのだが、「してはいけないことはしない」という日本の伝統は脈々と生きていて、「悪いことをされる方に油断がある」というヨーロッパ流の考え方をする学生は少ない。「人に迷惑をかけない」という「駅伝精神」は日本に根強く残っているのである。

 現代の日本人が法律なしでは何も合意できないとは考えられない。

おわり