目指してはならないもの “科学技術”

 今から約1000年前、日本は平将門の乱が平定され、藤原氏の全盛時代だった。武士の台頭、貴族の間の争いはあったが全体としては平和な時代だった。紫式部が源氏物語を書く少し前のことである。

 庶民の多くは農業に励み、それなりの人生を送っていた。もちろん、科学技術というものは皆無に等しく、電気が無いので夜はロウソクに火を灯し、水洗トイレや瞬間湯沸器はもちろんのこと、テレビ、自動車、そして携帯電話も無かった。

 それでも、人々はそれなりの人生を幸福に生きていた。四面を海に囲まれ、四季折々の景色と自然に恵まれていた日本は、金属資源なども豊かでそれらの輸出国でもあった。

 それから800年。江戸時代末期ですら、庶民の生活は平安時代とそれほど変わってはいなかったが、相変わらず「幸福」だった。
「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福である。一見したところ、富者も貧者も見あたらない。・・・これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。日本は「質素と正直」という点で他の国をまったく寄せつけない。そして、それが人々の生命と財産の安全を守り、満足につながっている。」(ハリス駐日アメリカ大使、日本の庶民の印象を記録。1857年)

 平安時代は今から1000年前、現在が西暦2000年、そして日本人はおそらく西暦3000年になっても日本列島に住んでいるのではないだろうか。そして、これからの1000年はこれまでの1000年に比較して格段に科学技術は進歩するだろう。

 毎年、膨大な国家予算が科学技術に投じられ、大学、国立研究機関、企業で多くの人たちが日夜、研究に励んでいる。わずか10年前には特殊な存在だった携帯電話が今では国民のほとんどが持つようになり、そのうちにロボットが登場して人間は仕事をしなくても良くなりそうである。

 純粋な知の探求・蓄積を目指す学問を別にすると、科学技術は「人類がより幸福になるための作業」ということができる。別の表現を使えば「科学技術が進歩すると、我々は幸福になる」ということになる。

 中世ヨーロッパ、ゲルマンの社会で、ある時に麦を刈り取る「鎌」が改良された。それを使うと麦の刈り取りがスムースにできるので地主は小作人の賃金を3マルクから4マルクに上げることにした。すると、小作人が次のように言ってきた。
「旦那さん。おかげさまで俺たちは今でも楽しくやっておりやす。せっかくでがすが、今まで通り3マルクで結構でがす。」

 江戸時代の職人。朝の9時から仕事を始めて昼までは「カカアとガキの為に」働き、午後は「自分の作品の為に」仕上げをして、3時頃には遊びに出る。人生はお金の為ではなく、家族のため、自分の仕事のプライドのため、そして楽しみのためにあった。

 ゲルマンの農夫も江戸の職人も「今以上、お金がいらないほど幸福」だった。身分は保障され、災害時にはみんなで助け合い、定年は無く、年を取れば若い者が世話をしてくれた。宵越しの金を持たなくても安心だったのである。

 現在の日本はリストラあり、定年あり、年金は不安定で、地震で家を失えば何年も悲惨な生活を強いられる。いつも不安で生活に満足感は無い。だからお金はいくらでも欲しい。どこまで行っても幸福感は無いのだ。

 科学技術は発展する。もし、科学技術が人類を「幸福」にするならば、平安時代は今よりずっと不幸であるはずだし、1000年後の人から見ると現在は実に不幸な人生を送っていたことになる。さらに1万年後の人から見ると1000年後の人でも悲惨な生活ということになる。

 もし、科学技術が人類に「便利」を与えるとすると、「便利」は「不安」を増大することになり、ロボットは人間から筋肉や感性などの「人間らしい機能」を奪うだろう。

 科学技術は個々の人間の「幸福」や「便利」とは何の関係も無い。ただ、科学技術は国家に力を与え、ミサイルと原爆を作ることができる。力を得れば隣の民族を圧迫できる。さらに、もし日本が世界を支配すればドルが円に変わる。そうすれば紙幣を印刷するだけでお金を得ることができる。

 科学技術を発展させなければ、アイヌと同じ運命になる。頭脳明晰、人格高潔でもその民族は消えていくだろう。

 科学技術を発展させていけば、やがて資源が枯渇して戦争になり、個人は人間らしい機能を一切失い、不安定な精神状態のまま、明日に怯えるのだ。

おわり