研究者はなにを目指すのか?(3)

- 企業の研究 -

 企業の研究というのは簡単だ。資本主義経済のもとでは企業は収益を上げようと活動している。なぜ企業が収益を上げられるかというと、社会に役立つからである。社会の人が欲しいと望んでいることをすれば収益が上がる。だから健全な資本主義のもとでは、企業の研究は自動的に健全な研究になる。

 たとえば、携帯電話が典型的だろう。図体が大きく、電池が消耗しやすかった頃、携帯電話は自動車に付けられるか、一部のマニアのためのものだったが、それが重さ150グラムを切り、通話料も下がってくると、国民総携帯電話時代となる。

 よくよく考えてみると携帯電話など要らないかも知れないし、社会的にも何かの害になる可能性もある。でも、「国民が欲しいもの」であったことは確かで、それに答えた企業の収益が上がる。民主主義なのだから、何が正しいかは民衆が決める。だから、それほど深く考える必要も無い。

 企業の研究は目標がハッキリしている。多くの場合、研究の目標の中には「時期」も重要で、このような製品を何時何時までにということになる。それを目指して、企業の研究陣は頑張る。

 そうなると目先の研究が多くなるので、企業では基礎的な研究ができないと嘆く研究者もいる。企業が基礎研究をできないから、大学や国立研究機関が基礎研究をするのだという人もいる。一理はあるがその論拠はだいぶ怪しい。

 企業は必ずしも明日の収益を上げれば良いという存在ではない。明日のものもあるし、明後日のものもある。だから長期的にしなければならないテーマは企業という生き物にとって大切である。

 基礎的な研究ができないという企業の研究者の嘆きは、次の2つの事が原因している。
1) 企業の研究者が基礎的研究を長期的にやっても収益に結びつけることができない。
2) 経営陣が自分の退任まで会社が持てばよいと思っている。

 私の経験ではどちらも正しいように思う。1)は第一に日本の企業の研究者のレベルが低い。大学ではろくに勉強をせず、会社に入ってからも分厚い専門書を読まないようでは世界的な研究はできない。グローバルで戦っている日本の企業にとっては基礎研究から進むテーマをやるには世界的に高いレベルが必要なことは言うまでもない。

 毎日、夜遅くまで勉強しなければならない。そして昼間は、研究のことで頭がいっぱい。まさか40才前で酒を飲むなど考えられない。研究を成功させるというのはそういうものである。

 また上司や重役を説き伏せる技術、信念、情熱、粘り強い心・・・そんなものも会社での研究では必要とされる。なんといっても上手くいくかどうか判らないのだから、それに黙ってお金を出してくれる人はいない。情熱と学力、それに粘りは必須だ。

 私は会社で研究する時に、「ヒットとホームラン」「バイオリズム」の2つをいつも意識していた。研究がいかに基礎的で大きな研究でも、ホームランが出るまで周囲は待ってくれない。だからいつもヒットを打ちながらホームランを待っている。

 もう一つはバイオリズムだ。研究も好不調の波がある。ドンドン進歩して良いデータが次々と出る場合と、あれほど好調だったのに、再現性は無い、かえって少し前よりデータが悪くなるなどはいつも起こることだ。

 私の場合、波長は3ヶ月だった。ダメになったら3ヶ月は潜行する。潜行している間、本社は攻撃してくるからそれを何とか誤魔化す。本社だって本当の所は知っているのだが、全社の納得を得るにはそれなりの理由があると言っているだけである。研究者は作戦を持って自分の研究を成功させるべく、努力する必要がある。

 経営陣も怪しい。確かに会社の将来を考えている人もいるが、半分は自分の退任の時期を睨んで行動している。日本の重役は退任したら引退だから、あまりアグレッシブでは無い。それに微妙な心理戦を毎日しているので、その疲れもある。だから、長期的な研究で10年先のことを説明すると「オレは居ないよ」などと不謹慎なことをつい口にする重役もいる。

 でも、私は会社の研究は評価している。それは短期的にも長期的にも、社会の期待を背負って研究するから、その意味では独善的になりにくいという面がある。ただ、最近の会社の研究があまりに短期間で成果を出そうとしている点について危惧しているが、それも長くは続かないだろう。

 整理すると、「会社の研究とは」という問いに対して、「社会が求める研究」と答えることができる。大学の研究よりスッキリしている。それは企業の活動と研究の目的が一致しているからだ。その点、大学は教育を主体とするか、先生の名誉に重点を置くかで焦点が変わる。

つづく