研究者はなにを目指すのか?(1)

- 研究の分類 -

 かつて、大学や国立研究所の研究などは社会的にほとんど話題になることは無かった。社会は「何か難しいことをやっている」とボンヤリと認識していたと言えるだろう。

 でも最近では、青色ダイオードの中村さんが会社を相手取って、一審では200億円という膨大な発明金の判決を得たり、どこかの大学の先生が交付されたお金を何か別の目的で使ったというように、研究に対して社会が関心を持つようなことが増えてきた。

 研究というのは世俗的なものと少し違うので、社会が関心を持たないのが普通であるけれど、「200億円」とか、「着服」あるいは「偽装」となると社会の関心事になる。社会の人は学問や文化のようなものには関心が無く、お金や妬み、ズルだけに興味があるとも思えないが、マスコミ報道の関係もあって関心が高まってきている。

 そこで、このシリーズでは「研究とはなにか?」「研究者とはどういう人種か?」「研究で大金が動いたり、不祥事が起きたりするのはなぜか?」について少し考えてみたいと思う。

 第一回は、研究の分類である。「研究」というと何でも十把一絡げのように思うけれど、自然科学の研究だけでも次の4つに分かれる。

1) 今までに無い新しいことを発見する研究
2) 発見されたことを社会に適合させたり、性能を上げる研究
3) 現象の分析や製品の性能を少しでも良くする研究
4) 依頼分析、技術サービスなどと直結する研究

 普通は1)が一番、価値のある研究と思われ、4)は研究と呼ばれないこともある。でもこのシリーズ全体の思想の一つであるが、もともと研究は社会の価値とは少し違う面があるので、1)が偉く、4)は偉くないなどと分類しないで進みたい。

 研究が「新しいこと」、製造が「製品を作ること」なら、「新しいこと」を見いだす研究にはさらに二つの分類をしなければならない。一つは「これまでの学問基準では否定されることを研究する」、もう一つは「これまでの学問で予想される新しいことを研究する」というものだ。

 これまでの学問で否定される研究の典型的な一つに「超伝導の発見」がある。この「事件」については後でもう一度、触れるが、普通は「オームの法則」があり、電線に電流が流れれば抵抗があるというそれまでの常識が法則として存在した。

 超伝導とは電線に電流が流れても抵抗がゼロというのだから、まったく新しい現象である。このような研究は「計画してできる」ということではなく、「偶然に発見される」のが特徴である。

 最近、話題になっているナノテクはさしずめ「これまでの学問で予想されるけれど新しいこと」を研究する例の一つだろう。分子の科学と物質の科学のように、片方がナノスケール以下、もう一つがミクロンスケールで、ナノ領域の学問はこれまで発達していなかった。

 つまり、そこに南極大陸があるということが判ってはいるが、まだ誰も探検していない、だからおそらく何か新しいことが発見される可能性が高い。そして、だいたいは「こうやればこうなる」ということが判っている。

 ナノテクのような研究で目標がある場合と、目標が無い場合がある。これまでの学問に反することを期待している訳ではないが、新しいことなのでできるかどうか判らない。だから目標がある場合と、無い場合で様相が異なる。

 ナノテクである材料を作ろうとする時に「これまでの材料の2倍の強さのものを作り出す。それに失敗したら失敗」という場合と、「何か新しい性質が出てくるだろうから、それを見つける」というのでは同じ新しい研究と言ってもずいぶん、違う。

 まだ新しい領域だから、具体的な目標を立てにくい。それでも必要があって目標が立てられると心理的にも圧迫がある。後に「暗闇の研究」というところで少し考えてみることではあるが、ギャンブル性も高い。

 私は会社の研究者の時には、「新しいことで、目標がある研究」をしていたが、大学ではどちらかというと「新しいことで、目標は特に無い研究」をしているので、精神的には大学の方が楽である。


 研究を分類して上に示してみた。主に、自然科学の研究を念頭に置いている。経済学の研究は自然科学と似ているので、新しい経済理論の創出、経済理論を社会に適合する研究、経済の近未来を推定する研究、そして経済分析など普通の手法で行う研究がそうである。

 人文科学でも基本的には同じであるが、法学のように社会で実際に役立つことを研究対象とする場合と、ギリシャ哲学のように直接的には社会と強い関係が無い場合で違いがある。もっとも、自然科学でも天文学などといった150億光年の世界の研究などはギリシャ哲学に似ている。

 そう考えると、おおよそ上の図で分類しても良いように思う。

つづく