― 有望 ―

 オンネスは金属の電気伝導度が温度によってどのように変わるのかについて研究していた。原理的には温度が低くなるほど抵抗は減るはずだったし、事実、そうだった。たとえば銅は良く電気を通すが、温度が上がると銅の原子が激しく振動する。そうすると銅の中を流れる電子は、銅の原子に衝突して減速する。だから温度が上がると抵抗が増す。

 オンネスは少しずつ温度を下げて「極低温」まで来た。すでに摂氏マイナス263℃、絶対零度に10℃と迫る。その温度に至っても水銀やスズの抵抗は少しずつ下がり、次第にゼロに近くなってきた。でもまだゼロとはまったく違い、抵抗は明らかに存在した。

 それはそうだろう。この世にはオームの法則というのがあって、電流が流れれば抵抗が生じる。というより電流が流れるのは水が流れるのと同じで「高いところから低いところへ流れる」から電気の世界の高さ・・・電圧が必要であり、その電圧に応じて電流が流れる。

 そんなことは当たり前に見えた。電気の世界だけにオームの法則があるのではない。物を運搬しようとすれば疲れる。物が軽い方が疲れないし、重ければ疲れる。少し運ぶなら良いが、何回も運搬すれば疲労困憊する。こんな原理的なことを研究しても意味が無い。

 でもオンネスはものすごい苦労をして温度を下げていった。絶対零度から8℃、絶対零度から6℃と巨大な冷凍機を動かして、少しずつ温度を下げた。そして絶対零度から4℃まで来た時だった。突然、抵抗が無くなったのである!? そんなことはない。おそらくは測定間違いだと誰でも思う。

 これが「超伝導現象発見」の瞬間である。オンネスが超伝導を発見した前の日、誰かがオンネスに「そんなに低温のところの性質を調べてどうなるのですか?」と聞いても彼は答えられない。彼には夢があるだけで、将来は判らない。判らないからこそ実験するのであり、判っていればタダの作業である。

 わたしはこの話が好きだ。これは超伝導だけに起こることではない。日頃の研究、日頃の技術開発にすべて同じ事が起こる。科学者に「これは何の役に立つのですか?」と聞いても無駄である。もしそれが判ればそれは科学のテーマではない。すでに判っていることは産業界が行うことであり、科学が行うことではない。

 将来がどうなるかを科学は計算することができる。おそらくは30年後には石油は枯渇し、人類はまた別の文明へと進むだろう。エネルギーは原子力だけになる。太陽電池や風力発電のような太陽エネルギーをあてにする方法は全滅する。それは現在のエネルギーの使用量が太陽の光のエネルギーに対して単位面積当たり1000倍に達するからである。エネルギー密度の絶対値がまったく異なる。

 でも、30年後のエネルギーがどうなるか、それが予測できてはたまらない。なぜかというと科学は「現状を覆すために努力する」からである。もし太陽電池が有望なら、すでに太陽電池の研究はなされていない。まして水素などはエネルギーではない。でも、何かの発見がそれを覆すかもしれないけれど、覆すまではまったく有望とは言えないはずである。

 わたしには夢がある。太陽の光のような薄いエネルギーでも現代の社会に役立つようにしたい・・・それは良い。でもそれは「一科学者の戯言」であって「論理的科学的に証明できること」ではない。

 つまり「科学者の夢は科学に否定される」という運命にある。

 国立大学が独立法人になって「有望な研究」に「重点的に投資をする」という「競争的資金」が幅を効かせている。でも、「有望な研究」とは何か、「競争」とは何と競争するのか、と言う基本的な問題について、巨大な大学と文部科学省は何も答えない。

 科学は「有望」を決められない。決めた途端に「科学」ではなくなる。だから「有望な研究」などはない。また科学は他人と「競争」するものでもない。科学は人には興味がなく、自然が対象である。誰が何をしているのか、そんなことは知らない。

 大学には小数の「科学に興味のない教授」がいないわけではない。その人達は一般社会と同じように「世間的栄達」「人の評判」に興味があり、現在の学問体系を大切にする。しかし、そのような教授は少数派である。

 一方、文部科学省とか大学管理には世間的な人が多い。彼らは現世での栄達が望みであり、自然より人間に興味がある。だからこそ官僚であり管理する人である。でもその人達が「正しい」と思うことは科学を進めるという点では「間違っている」だろう。

 人間として、社会人として、科学者と官僚のどちらが間違っているなどという事はない。でも、「税金を使うのだから、成果を上げなければならない」「成果を上げた人を偉くしなければならない」と考えるのは、「社会では栄達するのが正しい」という基本的仮定が必要である。

 これに対して科学とか教育というものは、「税金を使っても成果になるか判らない」「学問的に深く、人格的に偉い人が偉い」という別の基準を持っている。

 イエス・キリストが30歳で処刑されても、精神界ではローマ皇帝よりイエス・キリストが上位である。イエス・キリストを処刑したローマの高官は自らの価値観で別の価値を裁いた。

つづく